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今朝も澄んだ青空がひろがっているが午後から薄雲に覆われると天気予報では言っている。
寒気が入り込んできているらしく、うそ寒い。 寝不足がこたえ、頭の芯がゆらゆら揺れているようだ。 昨夜は仕事が伸び、神経が疲れていた。 遅い夕飯と晩酌をとりつつ何気なく深夜のテレビを見ていたら(もう1時半になっていた!) BSでチャップリンの「街の灯」をやっていた。 もう、半分くらいを過ぎていたが観た。 映画館で、ビデオで、何度も何度も観たこの名作に思いがけず出会い、またも心を奪われながら見入っていた。 そして様々なことを思い起こしているうちに、ますます目が冴えてきてしまった。 そこで今度は、古い文庫本を本箱から探し出し読み出した。 それは、ルナールの「博物誌」である。 何故その本を引っ張り出したかというと…… 昨日はぽかぽかと暖かく、まさに小春日和といいたい穏やかな日中であった。 そのせいか、我が家の情けないほど小さな庭に、どこからかひらひらと蝶が舞い込んできたのだ。 キチョウである。春や夏に比べて少し小さい感じだが、秋のほのくろい青空に揺れ動く黄の色は目を惹く美しさだ。 やや弱弱しくゆるやかに鉢植えの花々を訪ねまわる蝶を見ているうちに ふと、そういえばと、ルナールの博物誌の一節「蝶」が思い起こされた。 二つ折りの恋文が、花の番地を捜している。 これは、秋の蝶というより春の野原にこそふさわしい光景で、秋ならば 秋の蝶吹かれながらもゆくへあり (荒川暁浪) という句のほうがふさわしい。 けれども、このルナールの一節を思い出したことで、私は非常な懐かしさがこみ上げてきたのだ。 「博物誌」を読んだのはもう40年近くも前になる。青春の真っ只中のときだった。 さっそくしまいこんでしまっている古い文庫本を取り出して読みたかったのだが、仕事に行かねばならず、帰宅したら読もうと思っていたのだ。 というわけで、読んで考え込んだりしているうちにすっかり夜は明け、ちょっぴり仮眠して今起きたばかりなのだ。 今日のことは……そう、明日か、あるいは10日後にでも記すことになるだろうかーーー
ついついナガ~イ長い眠りに入ってしまっていた。
「寒い、寒い!」の連発で1月末に冬眠に入ったこのブログも、春眠をも通り越し、凄まじい暑さにも目覚めず、秋もすでに去り行くさなか、今漸くにしてのそっと頭を持ち上げてみた。 書き留めよ 議論したことを 風の中に吹き散らすな とレオナルド・ダ・ヴィンチは言ったが、私はみごとに日々の想念の全てをブログのなかには留めることなく吹き散らしてきたのだ。 今更その散乱した思いの断片を掻き集めてみても仕方あるまい。また新たに出直しだ さて、その寝ブログと化していた間に(時折片目くらいが開きかけたりもしたが、そんなときも眠り込んでるときも)、私は確かに自分を載せたこの地が大きくうねりながら回っているのを実感していた。といってももちろん地球の自転を意識できたわけではない。自転の速度は時速1600km以上というとてつもない超高速回転ではあるが、大気を含め地上の何もかもが一緒に回っているからつゆほどもそれを感じるはずもない。けれども、ここ日本という国についてだけは、間違いなく激しく振動しつつ旋回しているのを感じる。それも右へ右へと、スピードを上げながら……。 世界の『国境なき記者団』による「報道の自由 世界ランキング」の2006年度の発表(Worldwide Press Freedom Index 2006)は、やはり「ナットク納得!うべなるかな」のものであった。 この「ランキング」が毎年発表されるごとに日本は順位を下げ、今年は世界の国・地域での報道の自由度は51位。しかも記事の中で日本の順位降下が見出しにさえなり、アメリカ、フランスとともに「きわめて強い懸念(extremely alarming)」が表明されている。以下英語の原文を一部抜粋しておこう(http://www.rsf.org/article.php3?id_article=19388)。 Rising nationalism and the system of exclusive press clubs (kishas) threatened democratic gains in Japan, which fell 14 places to 51st. The newspaper Nihon Keizai was firebombed and several journalists phsyically attacked by far-right activists (uyoku). つまり、ナショナリズムの勃興と記者クラブの排他性を挙げ、ウヨクによる日経新聞社(昭和天皇の靖国神社への不快感をスクープした)やジャーナリスト達への物理的・身体的攻撃を記している。世界のジャーナリストの見る日本はこの点では正確だ。だが状況はもっともっと厳しい。大新聞社やテレビの情報操作があまりにもはなはだしいからである。それらについては多くのブログで触れられているからここではやめておこう。考えるだけで「怒り心頭に達する」ので狭心症の私としては心臓によくないからだ。 でも、せっかく薄目を開けて起きだしたのだから、これからまたポツラポツラと日常のチャメシゴトなどを中心に書き出していこうと思う。
寒い話ばかりになるが、実際今日もとても寒かった。
夜には道端の雪が凍って、ところどころてかてかに光っている。 きーんと空気が張り詰め、夜空に瞬く星が冴えて見える。 東京ではここ何年かこんな夜を経験していない気がする。 雪、そして寒さといえば、この頃の私は冬山よりも子どもの頃の北海道、それも初めて渡った函館の町を思い出す。 年を取ってきたせいだろうか。 函館の町を初めて見たのは青函連絡船からだった。 ゆっくりと近づく北の大地の玄関は、広い空の下で、うっすらと積もった雪が陽に白く輝いていた。 夜、上野を出てから気も遠くなるほどの長い時間を列車に揺られ、興奮から寝不足の目をこすって見た車窓からの景色は、生まれて初めての深い雪に埋もれた世界であった。目覚めてからさらに数時間、やっと着いた青森は、どんよりした空とくすんだ色の家並み、道端には子どもの私よりも高く積もった雪であった。これから住むことになるという北海道は、さらに船で4時間もかかるというのだからどんなに寂しい田舎なんだろうかと、心細さに泣きたくなったことを今でもはっきり覚えている。もう半世紀も前のことになってしまうことだが。 それだけに函館の街が思わぬ明るさにことさら光って見えた。船から降り立った時、青森で感じたよりもはるかに厳しい寒気に震えあがってしまったが、街は思いのほか賑やかで、予想を覆された。東京の都電と同じ電車も走っており、雪もずっと少なく、家々の屋根は瓦ではなくてカラフルなトタンの三角屋根だったり、その家の作りもまるで違うことにびっくりした。絵本で見る外国の街のようだと思った。 どんな理由で北海道に来なければならなかったか、それには親の深い事情があるであろうことは、子どもの私にも何となく察せられ、何故とはとても口に出して聞くことがはばかれたのは母の遠い目をした寂しげな表情からだった。 ともかく僕はここに住んで学校へ行ったり遊んだりするんだ、ということだけ考えようとしていたように思う。 そう、もう半世紀も前のことだ。 それから数年してその母も亡くなり、すでに3歳で父に死別していた私は今の親の養子となり、弟もまた同じ家に引き取ってもらった。 情に厚く真っ正直な新しい両親の元で、私たち兄弟は育った。 そのまま思春期を函館でおくった私は、大学に入って東京へ、弟は地元の大学から教師となった。現在は校長として函館近郊の町に赴任している。養父は亡くなったが養母は今も弟家族と一緒である。 こう書き綴っていくと、何か自分史のようになってくるので止めておこう。 北海道の雪と寒さの思い出話し(これだって自分史だが)だった。 今の母が何かの用事で函館から離れたある田舎の村へ行くというのでついていった。 汽車(当時の北海道の地方線は電化されてなく、ジーゼルカーだったように思う)を降りてから歩き出したのだが、市内では見たこともない雪の深さと厳しい寒さに私はおそれをなした。そればかりではない。家が、駅周辺にわずかばかりあるだけで、歩いて10分もするとほとんどみあたらなくなったのである。何故こんなところに列車の停まる駅があるのか不思議だった。 やがてどこを見ても真っ白な雪原が拡がるばかりになった。雪がなければきっとそこは北海道特有の広い広い畑だったのだろう。その中を、母はずんずん歩いていく。 車窓から見てるときから吹雪と分かっていたのだが、それが次第に強く激しくなってきた。真正面から吹きつけてくる猛烈な風と雪、それに足元からも舞い上がる雪煙。地吹雪だ。私は声も出ない。それどころか、とうとう呼吸さえ出来ないほどになった。 母は自分のコートを脱いで私を包み、「離れないようにして後ろを歩いてきなさい。しっかりするんだよ」と声を大きくしていった。その声さえ、言うそばから風に吹きちぎられていくようだった。私は母の背にしがみつくようにして行った・・・・。 何時間も歩いたような気がしたが、後で聞いた話しだが、実際は3,40分だったそうだ。 それにしても、そんな猛吹雪の中を歩くなんてことは生れて初めてのことであった。 目的の家についたとき、真っ白になったコートや手袋を脱がせた母は私を全身しっかりと抱きしめて、しばらくじっとそのままでいてくれた。冷たく感覚のなくなった私の両手を自分の素肌の胸に入れて包み込んでくれながら。私はなぜか涙が出てきて、止まらなかった。 このあたりから本当に今の母の子になったと思っている。「お母さん」そして「お父さん」と、何の蟠りもなく呼べるようになったのである。
寒い寒いと思っていたら雪が降っていた。
夜明けから1日中降っていて、東京には珍しい大雪である。 家の前を雪かきし、我が家の郵便受けに積もった雪を計ったら、16センチにも達していた。 雪害で苦しんでおられる方々には申し訳ないが、久しぶりに見る銀世界は美しい。 音も吸収されてあたりが静寂に包まれる。 それにしても寒い。寒くて身も心も縮こまる。 家に入っても古いので暖房によって暖められた空気もどこかへ逃げていく。 モスクワではウォッカさえ凍るという寒さ。私も氷点下20度、30度というのを幾度か体験している。 北や南のアルプスや富士山、谷川岳の冬山でのことである。 温度が低いだけではない。台風のような強い風に視界が利かない風雪の中を、雪洞を掘って何日も耐えねばならなかったりした。 だが、今はすっかり根性を無くして寒さがこたえる。 寒さに縮んでいると『寒苦鳥』という言葉が思い浮かんできた。 むかしむかし、インドのヒマラヤに寒苦鳥という鳥がいた。 その鳥は羽毛がなく、また巣を造りもしなかった。夜になると穴の中で寝るのである。 何しろヒマラヤの山中だ。寒くて寒くてたまらない。ついに雌鳥が「寒苦必死」(この寒さには耐えられない。死んでしまう)と鳴いた。それに雄鳥は応えて「夜明造巣」(夜が明けたなら巣を造ろう)と鳴いてその晩を耐えた。だが夜が明け、日が昇るとともに暖かくなると雄鳥はこう鳴くのである。「今日不死、明日不知死」。その意味は、今日は先ず死ぬことはあるまい。明日のことは分からない。この無常の世の中に、巣を造ったとてそれが何になろうか、というのだ。 『寒苦鳥』というのはむろん想像上の鳥である。これは、インドなどでは鳥でさえもが世の無常を悟るのだ、という喩えになっている。だが仏教では、そして普通寒苦鳥の例を出すときには、修行を怠るものの喩えとして使われる。陽に暖められると前の晩の寒さを忘れ、結局何もせず、はたしてその夜も寒さに苦しむことになるのであるから。 この話は私の胸にはこたえる。わが身の寒さ、懐の寒さ、いずれもがまさに仏教側の寒苦鳥の雄鳥そのものではないか。雌鳥や子鳥たちの寝顔を見ながら「明日こそ造巣!」と鳴いてみるのだが・・・・
また道端で出会ったことだが、今度は小学生の口喧嘩である。
4,5年生であろうか、学校帰りの男の子が二人言い合っている。 「バーカ、バーカ」 「おまえこそバーカ」 「バーカ」 「バッカバカ!」 これで終わりである。さっさと一人は帰って行った。 残った子は少し遅れてそのまま同じ方向を口を尖らせながら歩いていく。 なんとも情けない喧嘩である。 言い合った言葉はただ「バカ」のひとつ。 いつだったか居酒屋で、小学校のベテラン教師が「この頃の子ども達はちゃんと喧嘩しないんだよ」と話したことがある。取っ組み合いはもちろん、口喧嘩さえあまりなくなったというのだ。 それをきっかけに飲み仲間数人が、自分の子どもの頃の喧嘩について話し出した。みんな豊かな喧嘩体験を持っている。 口喧嘩についても、そういえばこんな言い方もあった、と次々と悪口、悪態の例が繰り出された。しかも出身地域がばらばらなので郷土色豊かな悪態が並び、実に面白かった。なるほどこんな悪態もあるのかと、言葉を膨らませる子どもの豊かな感性に感心したものである。 ひとしきりそれぞれの体験談が終ると、みな一様に「今の子はおとなしくなったのかなぁ」と言ってその教師を見た。彼は「そう、おとなしいといえばおとなしくなったといえる。でも、あの子は嫌いとかいやだとか、そんなことはしょっちゅうなんだ。だからといって真っ向から喧嘩しようとするのは少ない。陰湿なんだ。喧嘩の仕方が陰にこもってる。・・・」と話しが続いた。 聞いてる私たちも何とも寂しくなり、それこそ陰にこもってしまいそうになってしまった。 真っ向から相対する人間関係を避ける、というのが今の風潮であることは、様々な場面で実感する。それが小さな子どもにも現れ出てるとすると、暗澹とした気持ちにならざるをえない。 関係の濃密さを嫌い、バーチャルな世界へ身を浸そうとする若者はもう特殊ではなくなってきている。悪態もつかずに無言で刃物をブスリ、といった事件も増えている。 悪態といっても、むろん他者を傷つけ卑しめる悪いだけのものもあるが、ここでいうのはそうではない。悔しさ、怒りなどの感情のふくらみを思いっきり言葉として叩きつけるダイナミックな悪態、ユーモアや諧謔味あふれた悪態、などのことである。 日本語にはそういった悪態がいっぱいあって、人々はそれらを駆使して生活してきた。芝居の中や文学の中だけではない。落語を聞いてみるとよくそれがわかる。長屋の住人の胸のすくような歯切れのいい啖呵や、イメージ豊かな表現の悪態などに満ち満ちている。 例を挙げればきりがないし、特にあざやかな啖呵など長くなるのでやめておこう。ただ、次のような 「ぼーっとして、世の中をついでに生きてるようなやつだ」 「おめえみてえなそそっかしいやつは、しまいにァ電車ン中へ体をおいてくるぜ」 などは、その人柄の一面などをニュアンス豊かに表す例であろう 相手に悪態をつくということは、実は自分の腹の底を見せることである。裸になっているのである。 それはまた、相手に対して真正面から向き合っているのであり、自分の気持ちにも正直になっているのだ。いってみればきちんとした人間関係の現われなのである。 映画「寅さん」をみると、悪態が見事にちりばめられている。寅さんとおいちゃん、寅さんとたこ社長の言い争い、つまり口喧嘩は繋がり合う関係であるが故の悪態のつきあいなのである。 「寅さん」映画の最終作の、リリーが寅さんに向かって徹底的に悪態をならべる様は、この映画48作中の白眉といえる。それは、リリーの、本当はちっとも女心のわかっていない寅さんに対する、思いの爆発なのだ。 子ども達の間でも口喧嘩さえ少なくなるということは、互いが真っ向から向き合う人間関係を結ぼうとしない、ということになってしまう。それでは活き活きした言葉などは生れてきはしない。 今日の子どもの喧嘩の、「ばか」という一語だけの応酬に、大きな危機を感じたのである。
ようやく少しは時間的な余裕を持てるかな、と思ったのもつかの間、仕事場を引っ越すことになり、また私には似合わない忙しさとなってしまった。
実際の時間的な足りなさよりも精神的な負担のほうが大きく、気持ちに少しもゆとりをもてないという状態が続いている。 そんな心身ともに疲労して、買い物でぼんやり街を歩いていたとき、私は美しいものに出会った。 二人の年配の女性が道端で挨拶を交わしていたのだが、その姿が実に美しいのである。 ばったり出会ったのであろう、ともに腰をかがめてお辞儀を何度もし合い、言葉を交し合っている。 そのしぐさの優雅さと、言葉遣いの美しさに、私は少し離れたところからついつい立ち止まって見とれてしまっていた。そして何か清々しく心が洗われるような気持ちとなった。 心のこもった挨拶というものは実にいいものだ。 仲間どうし、見知らぬ人どうし、そして他の様々な場面での挨拶は、人と人とを繋げる第一歩としてはたらく。そこにおのずと互いの関係性が表れ、また人柄もにじみ出てくる。 そればかりではない。挨拶はその民族特有の表現形態がある。抱擁するなど体を接触する挨拶の仕方、日本のお辞儀のように接触をしない仕方といった違いはそれぞれの民族における伝統で、民族の、またその地域固有のものだ。そしてまた、挨拶のしぐさとともに交わされる言葉もその習俗を反映している。 もともと『挨』は「押す」、『拶』は「押し返す」という意味で、『一挨一拶』といって禅僧の応答・問答するという『知識考案』における受け答えをさす語だという。それが次第に一般化してきたのだそうである。挨拶に当たる言葉として古くは「物言い」「ことばかけ」などと言い習わされていた。電話の応対で「もしもし・・・」というのは「物申し」からきているようだ。 日常の「おはよう」「こんにちは」など簡略化され様式化された言葉のそれぞれは、人々の関係性を大切にする思いのことばかけで、あらためてひとつひとつのもつ意味の深さや美しさに胸を打たれる。 山を縦走していて、すれ違う登山者どうしが「こんにちは」と言葉を交し合うとき、ほっと胸のぬくもりを感じる。 また秩父(埼玉県)の谷深く分け入って歩いていると、出会った子ども達や大人もかならずといっていいほど「こんにちは」と見知らぬ私に声をかけてくれる。そんなとき、えもいわれぬ温かい気持ちになる。 あるアイヌの婦人の講演記録を読んでいたとき、その冒頭でその方はこう話しをきりだされた。 「イランカラプテ。こんにちは、初めまして、というアイヌ語です。本当は、『あなたの心にそっと触れさせていただきます。』という優しい言葉です。・・・・」
新年あけまして・・・と書き出そうと思ったが、もうとっくに明けきってしまって早や1週間以上が過ぎてしまった。1日という時間がするりとすり抜けていくような感じというのだろうか、日めくりの暦がはらりはらりと剥がれ落ちていくように日が過ぎた、とでも言ったらいいのか。とにかく、風林火山をもじって言うなら「迅きこと時の如し」である。
そんな正月ではあったのだが、その新年の迎え方は私には初体験のものだった。というのは『LIVEでカウントダウン』なるものをこの年齢で初めてすることになったのだから。 私の娘は、人生を太鼓叩いて笛吹いて暮らそう、なんていうフトドキなヤツである(父親がそんな生き方だからとよく言われるが)。プロの演奏家となってまだ日は浅いが東北から九州まで、時にはアメリカまでと、よくまああちらこちらと出かけて、家にはあまりいない。大晦日もどこぞへ演奏に出かけるのだが、こちらは知らぬことと、いつもは家でゆっくり年越しをするのだ。 だが今年はフアン感謝の自主ライブとかを急遽やることになって我が家もまきこまれ、よんどころなくそのカウントダウンライブとやらに行く羽目となったのである。 ライブというと、若い人達の熱狂的な雰囲気の中で全身を揺すって・・・というのを想像するが、娘のほうは、ある高名な和太鼓奏者の巧みな演奏にリードされながらの篠笛、能管の演奏であるため、静かな、時には厳かささえ感じるものであるから、音的には日本の正月らしい新年の迎え方であった。そしてカウントダウンとなったら、やはりクラッカーを鳴らしてシャンパンで乾杯となり、再び30分ほど演奏が続いた。その後は来てくれた方々と会場のホールで飲んだり食べたりの、なかなか粋なライブであった。もっとも、私は所在無く、ひたすら飲んでいただけであるが。 家に戻ったのは明け方であった。こうして今年の私がスタートされた。 そして・・・あぁ、あと何があったろうか。 「飲んで寝て」を2度繰り返したらもう仕事へ突入となってしまったのである。しかも私にしては珍しく「シゴトで忙しい」が昨日まで続いた。 実は、仕事上このめったにない忙しさは毎年正月期間の恒例となっていて、それが済んだときに私の正月は終わりという気分になるのである。 というわけで本当に正月は終わってしまい、明日からようやく日常へ戻る。 寒いけれど、ゆっくり「街なかのそぞろ歩き」もできそうだ。
昨日で今年の仕事を終えた。2005年も今日1日だけ。この夏から始めた自分のブログを読み返してて、書きたいことが山ほどありながらそのほんの一部をなぞったに過ぎないことに、あらためてブログという制約のもとで書くことの難しさを感じた。しかしまた、このような伝達手段ならではの面白さ、手ごたえも確かに受け取った。来年も細々ながらも続けていこうと思っている。
さて、今年1年の締め括りとして、そして新たな年への自分自身の決意として、「エスペラント」について記してみたい。なぜなら、それは国際化や民族の文化、教育、そして今の社会の傾向などを考える基本的な態度として、思いのほか大きく、深い問題だからである。 前回の記事を読んだ人から「エスペラントって何?」と聞かれた。 私にはそれに答える資格はない。なにしろ私がかの学生から学んだのは小学校の4年の終わりから5年の頃のわずか4ヶ月である。彼は病気で入院し、その後故郷へ帰ってしまった。 小学生の私に彼は紙にカタカナやローマ字を使って日常会話のほんのさわりから始まり、少し文法的なものに入りだしたところでストップしてしまった。 まだ英語も習っていないときだから、英文法のSVO、つまり主語の次に動詞が来て目的語が続くといった基本文型さえわからないため、先生の彼は苦労したことであろう。でも、その語順の違いや発音の不思議さなどが、かえって新しい言葉に向かっているという新鮮な気持ちで、好奇心に満ちている子どもにとっては面白くて仕方がなかった。だからお兄さんが戻ってきたらいっぱい習おうと心待ちにしていたが、ついに彼は戻ることなく亡くなってしまった。私には2,30枚の紙が残されたばかりであった。 その後すっかりエスペラントのことは忘れ去り、その言葉はおろかエスペラントという語自体も全く目や耳にすることなく、いつのまにかに半世紀近くも経ってしまった。 今回、ふと思い出してブログに書いたことにより、あらためてこのエスペラントとは何だったのかを、この数日間、時間の許す限り調べ、また考えてみた。そして、若き学徒のお兄さんが、自らの命の終わりに異様な熱をこめて幼い私を導こうとしたその心の一端が、今ようやくわかりかけてきたのだ。 エスペラントとは、19世紀の終わりごろにポーランド(当時はロシア領)のユダヤ人ザメンホフによって提唱された、国際コミュニケーションの手段としての補助言語である、という。つまり、世界の人々を結ぶ共通の言葉として造語法や文法を整理し、習得も使用も容易にと考えられた人工語なのである。(詳しくは多数の書物が出版されているし、手軽には日本エスペラント学会のサイトでもアウトラインがつかめる。興味ある方はぜひご覧になるといい)。 私がこれはこれは、と惹かれていったのはその精神である。エスペランティストたちが、何故国際語として英語や、ロシア、中国、アラビア語などではいけないと考えたかである。 これら民族語、特に今は英語が国際社会の共通語の役割を担っているように思われている。政治、経済、科学、スポーツなどあらゆる分野で英語の『寡占状態』と言っていい。だがそれは言語の不平等性を推し進める反民主的なことなのだという。 英語は、母語が英語圏の人たちにとって圧倒的に有利にはたらく。つまり、英語といわず、母語の異なる人々が互いの意志疎通をはかろうとして一方の側の民族言語を用いるなら、それは必ず言語上の不平等を生じるのだ。 これまでの世界の歴史は、言語のうえから見ても、政治的、経済的強者による圧迫、寡占化が弱者や少数民族に対して常に行われてきたことは確かである。そのために消えていった言語、消えつつある言葉が数知れない。アイヌ語しかりである。 ある言語学の研究リポートによれば、世界のおよそ6000の言語の95パーセントが21世紀中に消えるおそれさえある、と報告しているそうだ。 言語はその民族固有の歴史を背景とした大切な文化である。絶滅の危機にある生物種に対して大きな関心を持つ人たちも、この地上の、様々に生きる民族の文化の大半が失われつつあることへの危機感が、あまりにも薄いように思われる。 このような状況を踏まえ、エスペラントは、「言語差別と,民族語の学習・修得の困難さがもたらす言語上の障壁を解消するための補助語として機能することをその目的として」いるという。それはまた、『ほかの民族を自分たちの支配下に置くのではなく、たがいに尊敬しあうことを目指すのが 21世紀をむかえる私たちの進路だとすれば、地球的な規模でものごとを見る公平な視点と、対等なコミュニケーションを可能にする中立言語が不可欠である。エスペラントが民族語を廃止し言語を統一するもの、という根拠のない誤解がまだ根強いが、その反対に、言語と文化の多様性を断固として守る「橋わたしのことば」である。』と藤巻謙一氏は解説している。 アイヌの文化への関心からアイヌと和人をめぐる問題に突き当たり、そしてアイヌ語を学び始めた私にとって、このエスペランティストたちの提言は深く共感する。今すぐエスペラントを学ぶ余裕はないが、その精神をバックボーンとして、より真摯に自身と社会への考察にむかいたい、と大晦日に思ったのである。 この問題はとても深く大きくて、この場ではどうも舌足らずのものになるし、これから出かけるため時間もなくなった。いずれまた触れてみたい。 (なお、できればぜひ読んで頂きたいものとして「国際語エスペラント運動に関するプラハ宣言」(http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/manifestoprago.html)をあげておきます。) みなさま、どうぞよいお年を!
前回に、私が小学生のとき、12月25日がキリストの実際の誕生日とはいえないということを本で読み、衝撃を受けた話を記した。それは、当たり前のように思っていたことが実はそうとは限らないということを認識したはじめの経験でもあった。それとよく似たことがやはり小学生だった私にもうひとつある。また本との関係なのだが、そして先の件とは逆に本に書いてあることのほうが本当とは限らないということを教わる話だが、それについて書いてみたい。
私の家族は祖母や叔母とともに住んでいたのだが、父が熱心な日蓮宗の信者である祖母や叔母とことごとく対立して家を出、両親と私、弟の4人はアパート一間の暮らしとなった。そのアパートの隣の部屋に大学生が住んでいた。ある国立大学の理学部だというその学生は、ほっそりしたもの静かな人で、澄んだ目が印象的だった。 私はこの学生の部屋に入るのが大好きだった。そこにはずらりと本が並び、独特な匂いがしていた。そして学生は小学生の私に科学の面白さやいろいろな話をとても静かな口調で語ってくれた。ことに数の話は面白く、1,2,3などの整数は神あるいは自然が人に与えたものだが少数や分数は人が作った人工数だ、といったことから,今思えば素数に関する基礎理論ともいえる話を一所懸命話してくれた。そして私が何とか彼の話を理解したときにはきまって「えらいえらい。君は才能あるよ」とほめてくれる。お調子者の私はそれがうれしくて、次々と彼に数学や物理について、そのほか様々な話をせがんだ。そして数学やその他科学の不思議な世界や感動的な美しさを教えていただいた。私にとってこの上ない家庭教師であった。当時の西ドイツの首都ボンで生まれたという彼はドイツ語とエスペラントも教えてくれた。エスペラントを知っていると世界中の人と話せるというので私は夢中になって覚えた。もっともこの人造語も今は大半が記憶の底に沈み込んでしまい、思い起こすことも難しいが・・・ その学生に、私は当時読んでいた本の中から、いわゆる偉人の伝記について自分の感想を話したことがある。詳しいことは覚えていないが、偉人伝(キュリー婦人とか野口英世、アムンゼンといった科学者や冒険者達についてであったと思う)に感激してのことだった。きっと私はその偉い人たちのことを読んでどんなに感激しているかを話したようだ。それを聞いてくれた後、彼は「でもね、それは事実とは限らないよ」と言い出したので、わたしはびっくりした。そしておよそ次のような趣旨を私に言ったのだ。伝記というのは、特に子供向けのものはいい事の面しか書いていない。本当はどんなであったか、いかにエゴイスティックであり周りの人たちがどんなに傷ついたりしたか、それらはカットされて業績の面だけ強調されがちであること。そのため根拠のないエピソードもいかにもそれらしく脚色して書いてあることも沢山あるのだ、などなど・・・ 尊敬するお兄さんである彼の話は小学生の私には驚きであった。それまでの偉人伝を読んでいた気持ちに水を指す出来事だった。私は納得したようなしないような、釈然としないまま聞いていたことをありありと思い出す。 彼が教師だったら私にそんな話はしないであろう。実際どの大人たちも学校の先生も、できすぎたエピソードの大半は創作されたものであることや、まして伝記上の人物の負の面なんか子どもに知らせようとはしない。不必要として切り捨ててしまう。それが教育上の配慮だという思い込みからである。 だが、だが、なのだ。その教育上の配慮なるものは本当にいいことであろうか。それは子どもの夢を奪うことなのか。彼が私に語ったことで私は偉人なる人間に幻滅を抱いただろうか。 決してそうではない。彼が語った真意も、単にシニカルに伝記上の人物を評したのではない。また、本に書いてあるからといって何でも信じてはいけない、ということに力点があったのではない。 私は、その学生が語ったことがそのときは十分理解できはしなかったが、何かしら心に深く染み入った感じをもったのである。そして年を経て、その大切な意味をしっかりと受け取った。 彼はこんなことを私に教えてくれたのだ。それは、本というものは、あるひとつのテーマをとってみても、多くのいろいろなことが書く人によって取捨選択され、その人なりに整理されて提出されたものであり、そのため除かれたものが無数にあることをきちんと認識して読むことが大切なのだ、ということ。つまり書かれている事のさらに奥にも常に思いを、思考を、馳せること。それは読書への基本的な態度なのだ、と。 そしてもうひとつ、このことから私が彼に学んだことがある。 それは、子どもに対して、真実思うことを、心をつくして真剣に語るなら、必ず子どもの心に染み渡っていく、ということである。たとえ子どもにそのときは十分理解の及ばないことであろうと、これは大切なことだから今でなくともいつかぜひ知っておいて欲しいと思う気持ちから出る言葉は、そしてその思いは、間違いなく子どもの心に残されていくのだ。あの学生の真剣な顔、静かながらに熱を込めた話し振り、それは私の心に今も鮮明に焼き付いている。 小さな私の大師匠は、私が中学へ上がった年の秋、故郷へ帰って病死した。
もう、いつのまにかに年の暮れ・・・。実に1ヶ月半ぶりにこのブログに向かう。
こんなに長く更新しなかったのはそれなりの事情があったのだが、それはともかく、ようやくマイブログの前に座れるようになった。 こんなブログでも見て下さる方が毎日100名近くにもなっていたが、まるでブログの体をなしていない体たらく、さすがに皆さん呆れ果て、もうすっかり見放されていたろうと思っていた。それなのに昨日は14名、今日は9名とカウントされていた。何も更新しないままでいたのに訪れて下さっていたとは本当にありがたく、申し訳ない気持ちとともに、このブログという無名者の社会への発信手段の持つ威力に、何か少し怖さをも感じた。 それにしても、時はあっという間にすぎていく。今日はクリスマスだ。キリストの誕生を祭る日という。もちろん後にキリストとなるナザレのイエスがいつ産まれたかは誰も知らない。今でも誕生の日を1月6日として祝うところもあるようだ。 カトリック中央協議会の公式HPでもイエスの誕生日は不明であり、12月25日に降誕のミサを行うようになったもっとも古い記録はイエスが死んで300年以上も経った4世紀とある。その日が選ばれた理由として『昔むかしローマ帝国内では、太陽崇拝が広く行われていました。 ローマ暦では12月25日が冬至で、この日を太陽誕生の祝日として祝っていたそうです。教会はこの祭日を取り入れ、「正義の太陽」であるキリストの誕生の日として祝うようになったそうです。』という説を紹介している。 私が初めて12月25日はキリストが実際に生れた日とはいえない、ということを本で知ったのは小学校の4年の時だ。その頃から手当たり次第の乱読だったので、なんという本にそのことが書かれていたか全く思い出さないが、かなりの衝撃を受けたことだけはよく覚えている。親も学校でも世間でも12月の25日がクリスマスでキリストの誕生日だというのが当たり前のようにしているではないのか、と私は本のほうを疑った。そしていろんな人に聞いたのだが皆キリストの誕生日で違いはないという。やはりこの本はウソを書いたのかとも思ったが、しかしローマ暦のことや冬至における太陽の誕生説話などとてもおもしろく、子どもながらに説得力を感じていたのも事実である。 その疑問はずっと心に引っかかっていて、はっきり判ったのは中学生になってであった。 私の父は大工で、ある新設のミッションスクール建設の際、礼拝堂の聖壇を父が造ったのだが、その仕事を、そして父という日本の職人を、初代校長として赴任してきたフランス人(ローランという名である)がとても気に入り、以後よく私のうちにも遊びに来た。中学生となった私はこのローラン校長からいろいろな話を聞けた(といっても日本語はあまり上手くなく大変だったが)。その時ずっと抱いていたこのクリスマスの疑問について尋ねたら、丁寧に、そして熱を込めて教えてくれたのである。 クリスマスは西洋中東各地の様々な習俗の合わさったもの、それはキリスト教以前からも含め、人々の願い、希望の込められた祭日であり、キリスト教徒にとっては救い主イエス・キリストの誕生に思いをはせる日である。事実が12月25日に生れたのではなくても、それは特に問題ではない。そのような日を設定し、ミサを捧げることこそ重要なのだ、と私は中学生なりの理解でしかないであろうがとても納得した。 私はキリスト教徒ではない。それどころかどの宗教にも所属してはいない。その自分の我の強さに実はうんざりしている。神・仏なるものへすべてを委ね切れないつまらぬ我執に・・・・。 しかし、様々な考えの奥に行き着くところ、いつも宗教が立ちはだかる。 もうずいぶん昔のことになるが、私は、自分の専門外なのに、幕末創唱宗教といわれる金光教を中心に天理教や大本教などについての論文を20代半ばに書いたことがある。それがあるところに認められて古仏教の誕生地であるインドへ行くことができた。まだ1ドル360円という時代のことである。当時は政府関係か大企業、そして研究者だけで観光で行く人もほとんどいない時であったから、それなりにすばらしい体験ではあった。しかし、その『民衆宗教論』自体は、今思えば実に浅薄な、恥ずべきもので、私のなかからは抹殺している論文である。論に奥行きがないのである。敬虔な心をもたない遺体解剖者のようであり、信仰心の薄いものが書く宗教論の薄っぺらさが、自分のことながら今は我慢できない。 このところアイヌに関する本を読みふけっている。30年前から集めていた本を読み直し、また最近の出版物も読んでいて、週に1度の居酒屋通い以外は時間が取れないくらいだ。そしてアイヌ語にも手を染め出している。この敬虔な民族の、豊かな文化、自然観、信仰心に、圧倒されながらの毎日である。 クリスマスであるこの日、想いは色々に漂う。
北海道・函館から昨夜遅く帰京した。
本当にあっという間の4日間であった。 滞在中、半日だけ道南を母とともに弟が車で回ってくれたほかは、毎日、日中は父と私の次男の冥るお墓の前に立ち、夜は弟と家で酒を酌み交わしていた。 函館を発つ日を除き、願いどおりの"小春日和"の墓参であった。また久しぶりの函館の町についても、江差追分で知られる江差という小さな港町を訪れた印象についても、さらにはまだまだ見事な紅葉を保っていてくれた南北海道の原野の風景のことについても、思おうとすれば様々な感慨が胸いっぱいに押し寄せてくるのだが、それよりも、今、母のことを先ず書かないではいられない。老いた母の姿が重く大きく私の心を占めてしまうのである。 母は今年87歳。さすがにゆっくりと慎重な足取りではあるが、実によく歩く。話をしていても少しもおかしなところはない。それどころか時折ジョークさえ交えることがある。 しかし、『亡失』という、老いからくる抗い難い症状は、気丈で明晰な頭脳をもってしても容赦なく襲い、悲しいまでに母を、そして周囲を混乱させる。 何より母を苦しめているのは孤独感である。 連れ合いである私の父を亡くしてから23年。親はもちろん、母は5人いた兄弟姉妹すべてに先立たれ、訪れあう親戚も、もう誰もいない。親しい友人、知人、またお茶とお花のお弟子さんも次々と世を去ったり離れたりして、心からの話し相手という人は本当に誰一人いないのである。加えて長く住んでいたところからはかなり遠くへ引っ越してきたので、近所にもまだ話し相手がみつからない。もともと一途にお茶と活け花に精進してきた母は気さくに人と交わるタイプではないので、おそらくなかなか相手は現れてくれないだろう。 母の深い孤独の影はその姿に色濃く刻まれていた。 私が母に見る哀しみは、その現実だけではない。老いへの強い抵抗の姿なのだ。 母は自らが相当に老いたことを、むろんのこと知っている。だが、まだまだ自分はやれるしやらなくてはならないと、激しく葛藤しながら、現実には無惨な結果しかもたらされないことが許せないのである。 茶道界、華道界で一応の地位を築いた母に、数え年で88歳となる米寿のお祝いが家元や色々な方面から寄せられたが、母は少しも喜ばない。それどころかそういう祝い事や品々を無視してしまうのである。 「こんな形ばかりのもの、何がいいの。本人が嬉しくもないことやってくれなくていい」とかたくなになってしまう。 そして、もう絶対に無理な状況であるにもかかわらず、この引越した地でまた改めて看板を出し、お弟子さんをとりたい、と願ったりする。 嫁であり、また古く長い弟子でもある弟の連れ合いに、お茶やお花の面でもう任しておかなければならないことも、なかなか譲ろうとしない。いろんな面での弟夫婦の困惑振りが察せられ、私自身の不甲斐なさも含め、胸が痛む。 実は母はずっとこうだったのではない。もっともっとよく理解のある、状況を判断できる人であったのだ。だが、ここへきて急激に頑なな人に変わってきた。今年の春、母は私のところに1ヶ月ほどいたのだが、それからわずか半年も経たないのにずいぶん違ってきた。 このような頑なさは、老いが進んできていることの現われなのである。 「老」への認識とそれ故の不安、恐れが、激しい抵抗の意識を育て上げ、様々な変化を母にもたらし始めている。それは、やりきれない孤独感が助長したとも言えよう。 「老・病・死」は「生」を加えて人間の根源をなす「四苦」であるという。それへの徹底した認識と考察こそがゴータマ・シッダルダがブッダへの道を歩む出発点のひとつともなったことである。 人間に100パーセント訪れるこの四苦、むろんのこと私にもそう遠い遠いことなんかではない。 これからの母への対処も含め、私自身の「老苦」に対してもどのように迎え撃つか、本気で考えていかねばならない時が来た。
昨日は明るく晴れ渡った、小春日和と言いたいような日だったが、今日は薄雲が広がり、夕方には小雨さえぱらつく、そぞろ寒さを感じる1日となった。まさしく変わりやすい秋の空である。
やはり小春日和という言葉は、本来の冬の到来までとっておくべきなのだろう。 秋も遠ざかり、木枯らしの1番か2番が通り抜けた頃に短期間続く穏やかな、暖かささえ覚える日和こそその語にふさわしいのだから。 でも、つい小春などと言いたくなったのは、日中の暖かな日差しの中を散歩していてのことである。 近所の100坪もない空き地には雑草が生えていて、モンシロチョウ、キチョウ、タテハチョウのなかまやシジミチョウなどが何羽も舞い、西洋タンポポさえ咲いていたのである。ロゼット状の葉は、まだ十分に艶やかな緑を保ち、黄色の花に白や黄や銀色のチョウが代わる代わる訪れていた。その光景と陽気がつい私の中から小春日和という言葉を誘い出し、そしてこんな句をも思い起こさせた。 父を恋ふ心小春の日に似たる (高浜虚子) そんな句がふと口をついて出てきたのも、もうすぐ父の23回忌で、私はそのために何年かぶりに父のねむる北海道へ行こうとしているからであろう。 父は気性の激しい人だった。「最後の名人気質」と父を評する人もいる、数奇屋などの和建築の大工だった。 真っ正直で喧嘩っ早く、金銭には恬淡で、それがため周囲は、特に母は、幾つもの苦労を重ねることが多かった。 満足に小学校も出ていなかったが、知識欲は旺盛で、死の直前まで本を読みふけっていた。豊富な実体験と読書から得た知識は驚くほど多方面に渡っている。 その父が、いつも私に言ってたのは、「威張ってるヤツ、強いヤツとは死ぬ気でけんかしろ。いつも弱い立場のものに付け」であった。 そんな父に色々苦労させられた気丈な母も、今、すっかり老いた。 小学校の教師を10年で辞め、華道と茶道に精魂傾けて生きてきた母は、今は父が好きだった野の花を摘んで茶花に活け、お茶をたてて楽しんでいるという。 小春日の母の心に父住める (深見けん二) 明日、私は母のいる北海道へ行く。そこはもう冬になっているに違いない。 父の、そして私の次男がねむる墓を詣でるとき、小春日和であるだろうか。
日一日と秋の深まりを感じるこの頃です。ふと気づくと、花期の短いキンモクセイはとっくに散っていて、あの甘やかな香りは、もう街のどこからも漂い流れてくることはなくなりました。
前にここで書いた『キンモクセイ』の項で、私は「金のしずく」という表現を用いました。その言葉の関連から思い出したのですが、次のような文句から始まる『神の謡』があります。 「銀の滴降る降るまはりに 金の滴降る降るまはりに」・・・ 『アイヌ神謡集』の冒頭に収められた『梟の神の自ら歌った謡』の出だし部分です。 この本は、わずか19歳と3ヶ月で亡くなったアイヌ女性・知里幸恵(ちりゆきえ)が、たった1冊遺した神謡、カムイユカル(ユーカラ)の、アイヌ語のローマ字表記と、それを日本語に訳した13編を編んだものです。 幸恵は大正11年、この神謡集の校正を終えて直ぐこの世を去り、出版されたのは翌年でした。世界各国語に訳されていますが日本では再刊されたのは50年近く経った昭和45年、札幌の弘南堂書店からです。(その後に岩波文庫からも刊行されています)。 私は初版は見たことはありませんが、弘南堂版は手元にあります。20年ほど前に古本屋を尋ね歩いて、ようやく手に入れたものです。 その弘南堂版に、知里幸恵の写真が一葉載っています(岩波文庫にはありません)。 おそらく彼女が北海道から上京し、金田一京助宅でこの『神謡集』を執筆・校正していた頃のものではないでしょうか。とすれば、死の数ヶ月前の姿です。 どこかの庭園でありましょうか竹垣を背にした膝までの立ち姿が写っています。和服を着、慎ましく前に両手を組んだ、清楚な娘姿です。その顔のどこにも間近に迫る死の影は見いだすことができません。それどころか、若い女性の匂い立つような華やかさをも秘めて、静かにカメラを見つめています。 けれどもその姿は、いかにも、いかにも、静かです。静謐そのものです。それ故、その静かさの奥にある深い深い胸の裡が、否応なく見る者へ迫ってきます。 其の昔此の広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児 の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活してゐた彼等は、真に自然の 寵児、何と云ふ幸福な人だちであったでせう。 「序」で、幸恵はこう書き始めます。そして、変わり行く北海道の地と同胞の様相に深い嘆きの念をもって、 おゝ亡びゆくもの……それは今の私たちの名、何といふ悲しい名前を私たちは持ってゐ るのでせう。 自由な大地への侵略者によって根こそぎ其の生活を変転させられ、激しい迫害と収奪を繰り返し受け、その人口も大きく減じ、さらに日本人への徹底的な同化政策によって、アイヌ民族としての文化も言葉も奪われ、名前もまた日本名に改められたりして、『亡びの民』と云われ続けることへの悲哀を胸に、同胞への限りない愛を、そしていつかきっと「進み行く世と歩をならべる日」を切に願いつつ、幸恵は綴るのです。 愛する私たちの先祖が起伏す日頃互に意を通ずる為に用ひた多くの言語、言ひ古し、残 し伝へた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失 せてしまふのでせうか。おゝそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。 続いて「アイヌに生れアイヌ語の中に生ひたった」幸恵は、「雨の宵雪の夜、暇ある毎に打集ふて私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語」の中からごく小さな話を筆にした、と述べます。 すぐれたアイヌ文化の伝承者たちの中で育ち、自らも詩才に恵まれアイヌ語にも日本語にも美しくあざやかに思いを表すことのできたこの女性の、あまりにも若すぎる死は、惜しみてもあまりあるとはこのことだと思うのです。けれども、知里幸恵の遺した珠玉の本は、その心は、アイヌ人にも日本人にも、今も大きな影響を与え続けているのです。 ユーカラについてはここでは触れません。ただ、「世界五大叙事詩」(金田一京助)といった文学の面からだけみてはいけないと思うことは記したいと思います。それは単にはるか昔の神話なのではなく、敬虔な人々とその生活のよろこびと苦しみを幾世にも亘って伝え伝え、折々で自由に付け加えられうたわれ続けてきて、それは今もアイヌの人々の中で創られている、生きた物語だからです。 「アイヌ問題」は過去の問題なのではありません。今も続いてあり、しかもただ差別問題に終始してはいけないと思っています。何故なら、私たち日本人の心の源風景とでも呼びたいアイヌの人々(アイヌとは人間という意味で、アイヌ人といっては意味が重なるけれども)の自然への接し方や他人への深い思いを、今の私たちこそ、もっともっと知り学ぶことがこれからの世にも絶対に必要なことになる、と確信するからです。 ひとつだけ私自身の体験を記します。 学生の時、北海道・函館の居酒屋で、私はある老アイヌと飲んだことがあります。彼のおじいさんまでは日高のアイヌコタンに住んでいたそうですが、その祖父が、酒を飲んで興が乗るとアイヌ語で節をつけて語りだし、それがいつまでもいつまでも続く長い話だった、といいます。しかし彼は幼かったこともあり、古いアイヌ語はよくわからなかったので、その長い話は何も覚えていない。そしてよく祖父が孫の自分に、木を切る時に歌う歌、ウサギをとるときの歌、魚をとるときはこの歌、必ずこう歌えといってアイヌ語で何やら歌い聞かせてくれたというのです。「子どもの頃は覚えていたはずだが、小学校も高学年以上になるとアイヌ語を知っているだけでも馬鹿にされるので、もう皆忘れた」といい、「今になってじいさんのためにもアイヌ語の歌をひとつくらいちゃんと覚えていたらなぁ、と思うよ」と云ったのです。 私は、そのおじいさんが彼に教えようとしたのは祈りの歌だろうか労働歌だろうかと思いました。その時、アイヌが木を伐採するときの労働歌として更科源蔵が紹介した歌の文句を思い起こしたからです。 たしか「木の神様 木の神様 私がこの木を切るのは 火の神をやしなうためなのです」「木の神様 木の神様 私が木を切るのは 私の小さな家をつくるためなのです」というものであったと思います(今、手元にその本がないので不正確かもしれません)。 ともかくアイヌの人々は、自然界の命を持つものに対してその命を絶つことをする時は、ひとつひとつ理由を歌にして述べつつその労働を続ける、というのです。 さて、そんなアイヌの人々も今は同じ日本人なのだから今更何を問題にするのか、という人がいます。それもかなり多く。それにははっきりと「今だから、なおに!」と私は言います。 ここでその理由を詳しく述べるスペースはありませんが、古来、侵略とは、する側がされる人々を隷属させ、同化していくことです。和人と呼ばれる私たちも全くその通りにアイヌの人々を隷属化し、そして同化に全力を挙げてきました。強者による弱者への同化政策は、被侵略民族の自立を根底から奪うきわめて有効な手段です。だからこそいつの戦の後も必ずといっていいほどそれが繰り返されてきたのです。そこには、他民族への尊敬や尊重などあるはずもなく、強い者即ち優れるものという強者の論理だけが支配します。 誤解しないで頂きたいのは、私は、アイヌは国家として独立すべき、などとはいってはいません。国として別であろうと同じ国内であろうと、今それは一切関係ないことです。現に世界のほとんど全てが多民族国家であり、日本もまた同じく多民族国家なのですから。(北海道にはアイヌの人たちばかりでなく、かなり以前から独自の文化や言語をもつウイルタ(オロッコ)人やギリヤーク人も住んでいたり今もいるのです)。大切なのは、互に他の民族の尊厳を損なうすべての思想や行為を葬り去ることです。アイヌ人を日本人化するということがどれほど彼らを鋭く深く傷つけてきたことか。少数民族といわれるアイヌ民族の独自性、文化の根幹を侵すいかなることも私たちはすべきではないと考えます。 あまり長くなったので止めますが、最後にひとつ、知らなかった人には衝撃的な事実を記します。 『旧土人保護法』という法律があったのを知っていますか。旧土人とはアイヌのことです。それはアイヌの日本国民への同化を目的として明治32年に施行されたものです。何だ、そんな古い法律か、そんなものとっくの昔になくなってるだろう、と思う人が多いのではないでしょうか。こんなひどい名称の法律が、戦後も何十年と続き、ようやく廃止されたのは、なんと平成9年7月なのです。まだ10年も経っていないのですよ。それまでアイヌ人は国家による公式の名は、法律上とはいえ旧土人であったのです。廃止になったのも、1992年(平成4年)に国連で先住民の独自性を尊重し、人権・環境などの問題解決のための国際協力を目指して、「国際先住民年」を設定する国連決議が採択され、さらに94年から10年間をその推進期間とするといった世界的な流れのため、ようやく国も動いた、という体たらくでした。さすが1965年に国連総会で採択された『人種差別撤廃条約』を、30年も経った1995年(平成7年)にやっと推准した、という日本国です。『旧土人保護法』がなくなったのは更にそれから2年後だったというわけです。 アイヌの人々の文化に触れ「アイヌ問題」を考えることは、私にとって日本や自分自身のこれからのあり方を考えることでもあります。「勝ち組み」なるものがますます弱者を追いやる風潮の強まりつつある今、その世相にただ暗澹としてはいられない気持ちです。 (知里幸恵の、想い熱くありながら静かに立つ写真をしばらく見てから書き出したら、自然に「です。ます。」調になっていきました。彼女の憂いは尚深くなるこの頃ではないでしょうか。) このところやらねばならないことが多すぎて、少しも気が落ち着かない。 前にこのブログに書いた松本市での落語会の、そのビデオ編集も早くしなければならない。頼まれたあるイベントの企画構成も早く仕上げて送らなければならない。新しく気づいた素数に関するある論考も忘れないうちにまとめねばならない。それから、それから・・・。あれもこれも、みな早くしなければならない。夕食だって作らねばならない。そのうえに、何と、仕事までしなければならない。夕食作りと仕事以外はボランティアなのだが、みな出来上がるのを待っている。 そんなこの頃なのに、釣りに行ってしまった。 私が餌に触れないから釣りはやらないとここに書いた。 でも、少しだけ、釣りもいいもんだ、と思い始めている。というより、飲み仲間が釣り好きなので、引きずられるように行ってしまったのが間違いの元。とうとう2度、3度と回を重ね始めている。 もともと川も海も大好きで、沢登りで渓流を遡行したり、海はぼんやりいつまで眺めていても飽きないほうだ。だが、釣りだけはどんなに誘われてもしなかった。 それが、誘いに乗ってしまうようになったのは、私も年齢を重ねた証拠かもしれない。 それはともかく、今回はついにアオイソとかいう、ミミズの親戚みたいに細長くニョロニョロと這いまわり、姿はミミズよりもっと怪異で凄い匂いを発するヤツを餌にする、という地獄の苦行を通過せねばならないハメとなった。 しかも、仲間たちは平然と次の如く言う。 「頭をちょん切って、胴体に針を差し入れ、適当な長さで胴体をもちぎってしまえ。」 なんという獰猛な奴らなんだろうか。にやにや笑いながら私にのたまうのである。 むろんおののく私などにはせせら笑うのみで手助けなどしてくれない。 非情・無情の仲間たちの中で、私は赤錆びた残置ハーケンにカラビナを通してジッヘルせざるを得ないような心持ち(といっても岩登りのヤマヤ以外には何のことやら判るまいが)、つまり、えぃ、どうとでもなれっ、という破れかぶれの心境で(救いは落っこちて岩で頭が砕け散る気遣いだけはないだろうというだけだ)、したたかな命のうごめくヤツをぐいっと鷲掴みして、言われる通りに針に餌をつけ、竿を水辺にたらしていたのである。 だが、待てど暮らせど私なんかに釣られるような魚なんているはずもない。 一応ハゼ釣りなのだが、そしてその釣りというのは、最盛期ならば100とか200といった数の釣果を目論むそうなのだが、どういうわけかちっともハゼ様はお寄りあそばされない。 なんとしたことか私だけではなく名人達人揃いの我が仲間たちも、顔色はかなり冴えないのである。各自のクーラーにはハゼ殿たちが悠々と回遊できる数しかいない。 だが、そこは達人・名人たちである。あっさりこの場所はダメと見定めて、まだ正午には時間があるというのに、昼飯を、というより、宴会を始めたのである。 それからは途中仕入れたビールや焼酎のとめどない酌み交わし。何しに来たかと人問えば、もちろん飲みに来たに決まってる、と皆が言う。場所は下町佃島の、江戸の名残りの掘割で、やんややんやの馬鹿騒ぎ。下町ウォッチングの観光客も、呆れて眺めるありさまだ。 ようやく日も暮れかけた時刻になると、さすがに名人達人たちは、本流の大川(隅田川)に出て竿を替え、出世魚のスズキの前々名セイゴをほいほい釣り上げて、竿を収めた。 私といえばダボハゼだけを、ようやく1匹釣り上げて、「以後気をつけろよ」と重々言い聞かせて川に放ってやった。 そうしてまた場所を月島の飲み屋に替えて、今度は本格的に飲み会だ。 月島といえばもんじゃ焼きなどと、本当の下町の東京などまるで知らない雑誌記者どものおかげで、どこもかしこももんじゃ焼き屋が並んでしまった味気ない町に変わってしまったが、それでも少しは昔の面影が残ってもいる。そんな地元の人間だけが来るような飲み屋で宴会の続きは果てしなく続いた。 ということで、私は帰りの地下鉄ではぐっすり眠り、どこをどう潜り抜けたかよくわからずに、ともかく家にたどり着いて、何の憂いの生ずる間もなく、健やかに寝入ってしまったのである。 ああ~、私はほんとはかなり忙しくあったはずだったのだ・・・
私は前回のこのブログでミスをしてしまった。百瀬慎太郎の有名な言葉を違えたのである。
「山を思えば人を想い・・・」とやってしまったのだが、本当はこうである。 山を想へば人恋し 人を想へば山恋し 山好きなら誰でも知っている、といわれるほどポピュラーなフレーズを、なぜ間違えてしまったのか。 ポピュラー?そう、この言葉は広く知られている。というより、広く使われている。 観光地で売られる色紙やペナント、暖簾、手ぬぐいなどに刷り込まれたり、様々なお土産グッズのなかにも書かれたりしている。そうした中には作者の名が書かれていることはあまりない。あっても「慎太郎」というのが一番多く見かける。知らない人は石原慎太郎と思ってしまうのでは、とはらはらする。私の持っている白樺で作られた道標を模した飾り物には、この言葉の下になんと「石山」などと銘打っている。おそらくその土産物に百瀬の言葉を書き込んだ書家のほうの名であろう。これではまったく誤解されてしまうだろう。逆に言えば、言葉のほうの本当の作者は、まるで世間には知られていないのだ。 それにしても、これほど知れ渡っている(山愛好家との限定付きかと思うが)言葉なのに、私は間違えた。単に記憶違いをしていたのではない。ミスはミスなのだが、これには私なりの理由がある。 それはともかく、先ずは百瀬慎太郎についてごく簡単に触れてみよう。(実は百瀬慎太郎について書くだけでも400字詰めなら2,30枚でも足らないほどあるのだが、ここはブログなのだから軽くなぞりたい)。 百瀬慎太郎は、1892年(明治25年)に長野県・今の大町市に生まれた。実家は旅館である。その対山館という旅館に、彼が生まれた翌年にウエストンが泊まっている。日本に「登山」というものの種を蒔き、日本アルプスの父といわれたイギリス人である。(今でも上高地で毎年”ウエストン祭”が開かれている)。 慎太郎は家業の旅館を継ぎ、広い交友からそこを北アルプスに挑む者たちの拠点、地方の文化サロンに発展させた。そして国内初の登山案内者組合の創設や鉢ノ木峠の入り口に山小屋を開設するなど、黎明期の日本登山界に大きな貢献を果たしている。 自らも岳人として厳冬期の立山・鉢ノ木越えに成功し、また別の年、伊藤孝一の雪の立山・鉢ノ木峠を映画にするという当時では思いもよらない壮挙に、赤沼千尋たちとともに同行している。(この「幻のフィルム」と呼ばれた無声映画を、私は池袋で観ることができた。その感激は十数年たった今でも忘れられない)。 慎太郎の交流の一端を示すものとして、対山館を拠点として山に向かった人たちの名を思いつくまま上げてみよう。 芥川龍之介・若山牧水・竹久夢二・有島武郎・大町桂月・長谷川如是閑・川東碧梧桐・小島烏水・辻村伊助・槇有恒・中西悟堂…・。きりがない。数多くの登山家や学生たち、また文人・墨客が対山館で慎太郎と酒を酌み交わし、「大町・対山館時代」といわれる古きよき時代を作り上げていた。 また、慎太郎は若山牧水門下の歌人でもあった。瀟洒な文も遺している。 あの「山を想へば人恋し…」は、死の前年に鉢ノ木峠を回想した文中にあり、この言葉の後のほうに 「…山と人、その交錯の相(すがた)をぢっと見せつけられてきた自分だった…」とある。 さて、例の私の間違いについてである。 私はこの胸を打つ名文句を愛しながら、しかしそれが、観光地の様々なお土産グッズにけばけばしく載せられていることに、反発も感じていた。そして、なるべく自分の文にはこれを引用しないでおこうと思っていたのだ。そんな気持ちが私の心の下地にあったのと、もうひとつ、ブログを書いているうちに、慎太郎の次のような言葉が思い浮かんでいたのだ。 (宿屋の主人として生きてきたことは)「…私の思い出は山であり人である。山を想うということは、それに関連して人を想うことだ…」 「山岳夜話」という戦後まもなく連載された新聞のコラムの一節で、百瀬慎太郎を知っていくうちに私の心に焼き付いていたのだ。 「山を想えば人を想う…」とは、まったく無意識に出てしまったものなのだ。 写真でしか知らない私の生まれる前の人。しかしほかのいろいろな岳人たちと同じく、とても身近に感じられる人である。 敗戦の荒廃の中で慎太郎はこう歌う。 うつし世のあらがひの姿見るに堪へず我心ひたに山によりゆく そして国敗れて山河ありと、こうも書く。 「眺めても良い。想ふだけでもいゝ。必ずしも絶嶺に立たなくとも、山麓に、中腹に、渓谷に、森林に、其処には到る処に深い恵みが溢れてゐる。…」 対人館は昭和18年に廃業。戦争で山どころではなくなったからである。そして敗戦まもなくして、百瀬慎太郎は58歳で世を去った。 今年もまた6月の山開きに”慎太郎祭り”が行われたという。
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