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カテゴリ:spare time
  • 吹雪と「お母さん!」
    [ 2006-01-24 23:54 ]
  • 『寒 苦 鳥』
    [ 2006-01-21 23:50 ]
  • 活き活きした「悪態」は今どこへ・・・
    [ 2006-01-17 23:50 ]
  • 1葉の写真を見ていて
    [ 2005-10-31 09:46 ]
  • 「恋」し「想」うマチガイ
    [ 2005-10-20 22:36 ]
  • マツムシソウ
    [ 2005-10-05 23:41 ]
  • 随所任意の・・・
    [ 2005-09-21 23:26 ]
  • 予の Rambling Essay 第2弾
    [ 2005-09-18 17:55 ]
  • 別荘に着いて
    [ 2005-09-17 23:55 ]
  • 大学の「単位」は国際標準規格なのに・・・
    [ 2005-08-22 23:24 ]
吹雪と「お母さん!」
寒い話ばかりになるが、実際今日もとても寒かった。
夜には道端の雪が凍って、ところどころてかてかに光っている。
きーんと空気が張り詰め、夜空に瞬く星が冴えて見える。
東京ではここ何年かこんな夜を経験していない気がする。

雪、そして寒さといえば、この頃の私は冬山よりも子どもの頃の北海道、それも初めて渡った函館の町を思い出す。
年を取ってきたせいだろうか。

函館の町を初めて見たのは青函連絡船からだった。
ゆっくりと近づく北の大地の玄関は、広い空の下で、うっすらと積もった雪が陽に白く輝いていた。
夜、上野を出てから気も遠くなるほどの長い時間を列車に揺られ、興奮から寝不足の目をこすって見た車窓からの景色は、生まれて初めての深い雪に埋もれた世界であった。目覚めてからさらに数時間、やっと着いた青森は、どんよりした空とくすんだ色の家並み、道端には子どもの私よりも高く積もった雪であった。これから住むことになるという北海道は、さらに船で4時間もかかるというのだからどんなに寂しい田舎なんだろうかと、心細さに泣きたくなったことを今でもはっきり覚えている。もう半世紀も前のことになってしまうことだが。
それだけに函館の街が思わぬ明るさにことさら光って見えた。船から降り立った時、青森で感じたよりもはるかに厳しい寒気に震えあがってしまったが、街は思いのほか賑やかで、予想を覆された。東京の都電と同じ電車も走っており、雪もずっと少なく、家々の屋根は瓦ではなくてカラフルなトタンの三角屋根だったり、その家の作りもまるで違うことにびっくりした。絵本で見る外国の街のようだと思った。

どんな理由で北海道に来なければならなかったか、それには親の深い事情があるであろうことは、子どもの私にも何となく察せられ、何故とはとても口に出して聞くことがはばかれたのは母の遠い目をした寂しげな表情からだった。
ともかく僕はここに住んで学校へ行ったり遊んだりするんだ、ということだけ考えようとしていたように思う。

そう、もう半世紀も前のことだ。
それから数年してその母も亡くなり、すでに3歳で父に死別していた私は今の親の養子となり、弟もまた同じ家に引き取ってもらった。
情に厚く真っ正直な新しい両親の元で、私たち兄弟は育った。
そのまま思春期を函館でおくった私は、大学に入って東京へ、弟は地元の大学から教師となった。現在は校長として函館近郊の町に赴任している。養父は亡くなったが養母は今も弟家族と一緒である。

こう書き綴っていくと、何か自分史のようになってくるので止めておこう。
北海道の雪と寒さの思い出話し(これだって自分史だが)だった。

今の母が何かの用事で函館から離れたある田舎の村へ行くというのでついていった。
汽車(当時の北海道の地方線は電化されてなく、ジーゼルカーだったように思う)を降りてから歩き出したのだが、市内では見たこともない雪の深さと厳しい寒さに私はおそれをなした。そればかりではない。家が、駅周辺にわずかばかりあるだけで、歩いて10分もするとほとんどみあたらなくなったのである。何故こんなところに列車の停まる駅があるのか不思議だった。

やがてどこを見ても真っ白な雪原が拡がるばかりになった。雪がなければきっとそこは北海道特有の広い広い畑だったのだろう。その中を、母はずんずん歩いていく。
車窓から見てるときから吹雪と分かっていたのだが、それが次第に強く激しくなってきた。真正面から吹きつけてくる猛烈な風と雪、それに足元からも舞い上がる雪煙。地吹雪だ。私は声も出ない。それどころか、とうとう呼吸さえ出来ないほどになった。
母は自分のコートを脱いで私を包み、「離れないようにして後ろを歩いてきなさい。しっかりするんだよ」と声を大きくしていった。その声さえ、言うそばから風に吹きちぎられていくようだった。私は母の背にしがみつくようにして行った・・・・。

何時間も歩いたような気がしたが、後で聞いた話しだが、実際は3,40分だったそうだ。
それにしても、そんな猛吹雪の中を歩くなんてことは生れて初めてのことであった。
目的の家についたとき、真っ白になったコートや手袋を脱がせた母は私を全身しっかりと抱きしめて、しばらくじっとそのままでいてくれた。冷たく感覚のなくなった私の両手を自分の素肌の胸に入れて包み込んでくれながら。私はなぜか涙が出てきて、止まらなかった。

このあたりから本当に今の母の子になったと思っている。「お母さん」そして「お父さん」と、何の蟠りもなく呼べるようになったのである。






by SnowAlps | 2006-01-24 23:54 | spare time
『寒 苦 鳥』
寒い寒いと思っていたら雪が降っていた。
夜明けから1日中降っていて、東京には珍しい大雪である。
家の前を雪かきし、我が家の郵便受けに積もった雪を計ったら、16センチにも達していた。

雪害で苦しんでおられる方々には申し訳ないが、久しぶりに見る銀世界は美しい。
音も吸収されてあたりが静寂に包まれる。

それにしても寒い。寒くて身も心も縮こまる。
家に入っても古いので暖房によって暖められた空気もどこかへ逃げていく。

モスクワではウォッカさえ凍るという寒さ。私も氷点下20度、30度というのを幾度か体験している。
北や南のアルプスや富士山、谷川岳の冬山でのことである。
温度が低いだけではない。台風のような強い風に視界が利かない風雪の中を、雪洞を掘って何日も耐えねばならなかったりした。
だが、今はすっかり根性を無くして寒さがこたえる。

寒さに縮んでいると『寒苦鳥』という言葉が思い浮かんできた。
むかしむかし、インドのヒマラヤに寒苦鳥という鳥がいた。
その鳥は羽毛がなく、また巣を造りもしなかった。夜になると穴の中で寝るのである。
何しろヒマラヤの山中だ。寒くて寒くてたまらない。ついに雌鳥が「寒苦必死」(この寒さには耐えられない。死んでしまう)と鳴いた。それに雄鳥は応えて「夜明造巣」(夜が明けたなら巣を造ろう)と鳴いてその晩を耐えた。だが夜が明け、日が昇るとともに暖かくなると雄鳥はこう鳴くのである。「今日不死、明日不知死」。その意味は、今日は先ず死ぬことはあるまい。明日のことは分からない。この無常の世の中に、巣を造ったとてそれが何になろうか、というのだ。

『寒苦鳥』というのはむろん想像上の鳥である。これは、インドなどでは鳥でさえもが世の無常を悟るのだ、という喩えになっている。だが仏教では、そして普通寒苦鳥の例を出すときには、修行を怠るものの喩えとして使われる。陽に暖められると前の晩の寒さを忘れ、結局何もせず、はたしてその夜も寒さに苦しむことになるのであるから。

この話は私の胸にはこたえる。わが身の寒さ、懐の寒さ、いずれもがまさに仏教側の寒苦鳥の雄鳥そのものではないか。雌鳥や子鳥たちの寝顔を見ながら「明日こそ造巣!」と鳴いてみるのだが・・・・
by SnowAlps | 2006-01-21 23:50 | spare time
活き活きした「悪態」は今どこへ・・・
また道端で出会ったことだが、今度は小学生の口喧嘩である。
4,5年生であろうか、学校帰りの男の子が二人言い合っている。
 「バーカ、バーカ」
 「おまえこそバーカ」
 「バーカ」
 「バッカバカ!」
これで終わりである。さっさと一人は帰って行った。
残った子は少し遅れてそのまま同じ方向を口を尖らせながら歩いていく。

なんとも情けない喧嘩である。
言い合った言葉はただ「バカ」のひとつ。

いつだったか居酒屋で、小学校のベテラン教師が「この頃の子ども達はちゃんと喧嘩しないんだよ」と話したことがある。取っ組み合いはもちろん、口喧嘩さえあまりなくなったというのだ。
それをきっかけに飲み仲間数人が、自分の子どもの頃の喧嘩について話し出した。みんな豊かな喧嘩体験を持っている。
口喧嘩についても、そういえばこんな言い方もあった、と次々と悪口、悪態の例が繰り出された。しかも出身地域がばらばらなので郷土色豊かな悪態が並び、実に面白かった。なるほどこんな悪態もあるのかと、言葉を膨らませる子どもの豊かな感性に感心したものである。
ひとしきりそれぞれの体験談が終ると、みな一様に「今の子はおとなしくなったのかなぁ」と言ってその教師を見た。彼は「そう、おとなしいといえばおとなしくなったといえる。でも、あの子は嫌いとかいやだとか、そんなことはしょっちゅうなんだ。だからといって真っ向から喧嘩しようとするのは少ない。陰湿なんだ。喧嘩の仕方が陰にこもってる。・・・」と話しが続いた。
聞いてる私たちも何とも寂しくなり、それこそ陰にこもってしまいそうになってしまった。

真っ向から相対する人間関係を避ける、というのが今の風潮であることは、様々な場面で実感する。それが小さな子どもにも現れ出てるとすると、暗澹とした気持ちにならざるをえない。
関係の濃密さを嫌い、バーチャルな世界へ身を浸そうとする若者はもう特殊ではなくなってきている。悪態もつかずに無言で刃物をブスリ、といった事件も増えている。

悪態といっても、むろん他者を傷つけ卑しめる悪いだけのものもあるが、ここでいうのはそうではない。悔しさ、怒りなどの感情のふくらみを思いっきり言葉として叩きつけるダイナミックな悪態、ユーモアや諧謔味あふれた悪態、などのことである。
日本語にはそういった悪態がいっぱいあって、人々はそれらを駆使して生活してきた。芝居の中や文学の中だけではない。落語を聞いてみるとよくそれがわかる。長屋の住人の胸のすくような歯切れのいい啖呵や、イメージ豊かな表現の悪態などに満ち満ちている。
例を挙げればきりがないし、特にあざやかな啖呵など長くなるのでやめておこう。ただ、次のような
 「ぼーっとして、世の中をついでに生きてるようなやつだ」
 「おめえみてえなそそっかしいやつは、しまいにァ電車ン中へ体をおいてくるぜ」
などは、その人柄の一面などをニュアンス豊かに表す例であろう

相手に悪態をつくということは、実は自分の腹の底を見せることである。裸になっているのである。
それはまた、相手に対して真正面から向き合っているのであり、自分の気持ちにも正直になっているのだ。いってみればきちんとした人間関係の現われなのである。
映画「寅さん」をみると、悪態が見事にちりばめられている。寅さんとおいちゃん、寅さんとたこ社長の言い争い、つまり口喧嘩は繋がり合う関係であるが故の悪態のつきあいなのである。
「寅さん」映画の最終作の、リリーが寅さんに向かって徹底的に悪態をならべる様は、この映画48作中の白眉といえる。それは、リリーの、本当はちっとも女心のわかっていない寅さんに対する、思いの爆発なのだ。

子ども達の間でも口喧嘩さえ少なくなるということは、互いが真っ向から向き合う人間関係を結ぼうとしない、ということになってしまう。それでは活き活きした言葉などは生れてきはしない。
今日の子どもの喧嘩の、「ばか」という一語だけの応酬に、大きな危機を感じたのである。

by SnowAlps | 2006-01-17 23:50 | spare time
1葉の写真を見ていて
日一日と秋の深まりを感じるこの頃です。ふと気づくと、花期の短いキンモクセイはとっくに散っていて、あの甘やかな香りは、もう街のどこからも漂い流れてくることはなくなりました。

前にここで書いた『キンモクセイ』の項で、私は「金のしずく」という表現を用いました。その言葉の関連から思い出したのですが、次のような文句から始まる『神の謡』があります。

   「銀の滴降る降るまはりに 金の滴降る降るまはりに」・・・

『アイヌ神謡集』の冒頭に収められた『梟の神の自ら歌った謡』の出だし部分です。
この本は、わずか19歳と3ヶ月で亡くなったアイヌ女性・知里幸恵(ちりゆきえ)が、たった1冊遺した神謡、カムイユカル(ユーカラ)の、アイヌ語のローマ字表記と、それを日本語に訳した13編を編んだものです。
幸恵は大正11年、この神謡集の校正を終えて直ぐこの世を去り、出版されたのは翌年でした。世界各国語に訳されていますが日本では再刊されたのは50年近く経った昭和45年、札幌の弘南堂書店からです。(その後に岩波文庫からも刊行されています)。
私は初版は見たことはありませんが、弘南堂版は手元にあります。20年ほど前に古本屋を尋ね歩いて、ようやく手に入れたものです。
その弘南堂版に、知里幸恵の写真が一葉載っています(岩波文庫にはありません)。
おそらく彼女が北海道から上京し、金田一京助宅でこの『神謡集』を執筆・校正していた頃のものではないでしょうか。とすれば、死の数ヶ月前の姿です。

どこかの庭園でありましょうか竹垣を背にした膝までの立ち姿が写っています。和服を着、慎ましく前に両手を組んだ、清楚な娘姿です。その顔のどこにも間近に迫る死の影は見いだすことができません。それどころか、若い女性の匂い立つような華やかさをも秘めて、静かにカメラを見つめています。
けれどもその姿は、いかにも、いかにも、静かです。静謐そのものです。それ故、その静かさの奥にある深い深い胸の裡が、否応なく見る者へ迫ってきます。

  其の昔此の広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児
  の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活してゐた彼等は、真に自然の
  寵児、何と云ふ幸福な人だちであったでせう。

「序」で、幸恵はこう書き始めます。そして、変わり行く北海道の地と同胞の様相に深い嘆きの念をもって、

  おゝ亡びゆくもの……それは今の私たちの名、何といふ悲しい名前を私たちは持ってゐ
  るのでせう。

自由な大地への侵略者によって根こそぎ其の生活を変転させられ、激しい迫害と収奪を繰り返し受け、その人口も大きく減じ、さらに日本人への徹底的な同化政策によって、アイヌ民族としての文化も言葉も奪われ、名前もまた日本名に改められたりして、『亡びの民』と云われ続けることへの悲哀を胸に、同胞への限りない愛を、そしていつかきっと「進み行く世と歩をならべる日」を切に願いつつ、幸恵は綴るのです。

  愛する私たちの先祖が起伏す日頃互に意を通ずる為に用ひた多くの言語、言ひ古し、残
  し伝へた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失
  せてしまふのでせうか。おゝそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。

続いて「アイヌに生れアイヌ語の中に生ひたった」幸恵は、「雨の宵雪の夜、暇ある毎に打集ふて私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語」の中からごく小さな話を筆にした、と述べます。
すぐれたアイヌ文化の伝承者たちの中で育ち、自らも詩才に恵まれアイヌ語にも日本語にも美しくあざやかに思いを表すことのできたこの女性の、あまりにも若すぎる死は、惜しみてもあまりあるとはこのことだと思うのです。けれども、知里幸恵の遺した珠玉の本は、その心は、アイヌ人にも日本人にも、今も大きな影響を与え続けているのです。

ユーカラについてはここでは触れません。ただ、「世界五大叙事詩」(金田一京助)といった文学の面からだけみてはいけないと思うことは記したいと思います。それは単にはるか昔の神話なのではなく、敬虔な人々とその生活のよろこびと苦しみを幾世にも亘って伝え伝え、折々で自由に付け加えられうたわれ続けてきて、それは今もアイヌの人々の中で創られている、生きた物語だからです。

「アイヌ問題」は過去の問題なのではありません。今も続いてあり、しかもただ差別問題に終始してはいけないと思っています。何故なら、私たち日本人の心の源風景とでも呼びたいアイヌの人々(アイヌとは人間という意味で、アイヌ人といっては意味が重なるけれども)の自然への接し方や他人への深い思いを、今の私たちこそ、もっともっと知り学ぶことがこれからの世にも絶対に必要なことになる、と確信するからです。

ひとつだけ私自身の体験を記します。
学生の時、北海道・函館の居酒屋で、私はある老アイヌと飲んだことがあります。彼のおじいさんまでは日高のアイヌコタンに住んでいたそうですが、その祖父が、酒を飲んで興が乗るとアイヌ語で節をつけて語りだし、それがいつまでもいつまでも続く長い話だった、といいます。しかし彼は幼かったこともあり、古いアイヌ語はよくわからなかったので、その長い話は何も覚えていない。そしてよく祖父が孫の自分に、木を切る時に歌う歌、ウサギをとるときの歌、魚をとるときはこの歌、必ずこう歌えといってアイヌ語で何やら歌い聞かせてくれたというのです。「子どもの頃は覚えていたはずだが、小学校も高学年以上になるとアイヌ語を知っているだけでも馬鹿にされるので、もう皆忘れた」といい、「今になってじいさんのためにもアイヌ語の歌をひとつくらいちゃんと覚えていたらなぁ、と思うよ」と云ったのです。
私は、そのおじいさんが彼に教えようとしたのは祈りの歌だろうか労働歌だろうかと思いました。その時、アイヌが木を伐採するときの労働歌として更科源蔵が紹介した歌の文句を思い起こしたからです。
たしか「木の神様 木の神様 私がこの木を切るのは 火の神をやしなうためなのです」「木の神様 木の神様 私が木を切るのは 私の小さな家をつくるためなのです」というものであったと思います(今、手元にその本がないので不正確かもしれません)。
ともかくアイヌの人々は、自然界の命を持つものに対してその命を絶つことをする時は、ひとつひとつ理由を歌にして述べつつその労働を続ける、というのです。

さて、そんなアイヌの人々も今は同じ日本人なのだから今更何を問題にするのか、という人がいます。それもかなり多く。それにははっきりと「今だから、なおに!」と私は言います。
ここでその理由を詳しく述べるスペースはありませんが、古来、侵略とは、する側がされる人々を隷属させ、同化していくことです。和人と呼ばれる私たちも全くその通りにアイヌの人々を隷属化し、そして同化に全力を挙げてきました。強者による弱者への同化政策は、被侵略民族の自立を根底から奪うきわめて有効な手段です。だからこそいつの戦の後も必ずといっていいほどそれが繰り返されてきたのです。そこには、他民族への尊敬や尊重などあるはずもなく、強い者即ち優れるものという強者の論理だけが支配します。
誤解しないで頂きたいのは、私は、アイヌは国家として独立すべき、などとはいってはいません。国として別であろうと同じ国内であろうと、今それは一切関係ないことです。現に世界のほとんど全てが多民族国家であり、日本もまた同じく多民族国家なのですから。(北海道にはアイヌの人たちばかりでなく、かなり以前から独自の文化や言語をもつウイルタ(オロッコ)人やギリヤーク人も住んでいたり今もいるのです)。大切なのは、互に他の民族の尊厳を損なうすべての思想や行為を葬り去ることです。アイヌ人を日本人化するということがどれほど彼らを鋭く深く傷つけてきたことか。少数民族といわれるアイヌ民族の独自性、文化の根幹を侵すいかなることも私たちはすべきではないと考えます。

あまり長くなったので止めますが、最後にひとつ、知らなかった人には衝撃的な事実を記します。
『旧土人保護法』という法律があったのを知っていますか。旧土人とはアイヌのことです。それはアイヌの日本国民への同化を目的として明治32年に施行されたものです。何だ、そんな古い法律か、そんなものとっくの昔になくなってるだろう、と思う人が多いのではないでしょうか。こんなひどい名称の法律が、戦後も何十年と続き、ようやく廃止されたのは、なんと平成9年7月なのです。まだ10年も経っていないのですよ。それまでアイヌ人は国家による公式の名は、法律上とはいえ旧土人であったのです。廃止になったのも、1992年(平成4年)に国連で先住民の独自性を尊重し、人権・環境などの問題解決のための国際協力を目指して、「国際先住民年」を設定する国連決議が採択され、さらに94年から10年間をその推進期間とするといった世界的な流れのため、ようやく国も動いた、という体たらくでした。さすが1965年に国連総会で採択された『人種差別撤廃条約』を、30年も経った1995年(平成7年)にやっと推准した、という日本国です。『旧土人保護法』がなくなったのは更にそれから2年後だったというわけです。

アイヌの人々の文化に触れ「アイヌ問題」を考えることは、私にとって日本や自分自身のこれからのあり方を考えることでもあります。「勝ち組み」なるものがますます弱者を追いやる風潮の強まりつつある今、その世相にただ暗澹としてはいられない気持ちです。

(知里幸恵の、想い熱くありながら静かに立つ写真をしばらく見てから書き出したら、自然に「です。ます。」調になっていきました。彼女の憂いは尚深くなるこの頃ではないでしょうか。)


by SnowAlps | 2005-10-31 09:46 | spare time
「恋」し「想」うマチガイ
私は前回のこのブログでミスをしてしまった。百瀬慎太郎の有名な言葉を違えたのである。
「山を思えば人を想い・・・」とやってしまったのだが、本当はこうである。
   山を想へば人恋し  人を想へば山恋し

山好きなら誰でも知っている、といわれるほどポピュラーなフレーズを、なぜ間違えてしまったのか。
ポピュラー?そう、この言葉は広く知られている。というより、広く使われている。
観光地で売られる色紙やペナント、暖簾、手ぬぐいなどに刷り込まれたり、様々なお土産グッズのなかにも書かれたりしている。そうした中には作者の名が書かれていることはあまりない。あっても「慎太郎」というのが一番多く見かける。知らない人は石原慎太郎と思ってしまうのでは、とはらはらする。私の持っている白樺で作られた道標を模した飾り物には、この言葉の下になんと「石山」などと銘打っている。おそらくその土産物に百瀬の言葉を書き込んだ書家のほうの名であろう。これではまったく誤解されてしまうだろう。逆に言えば、言葉のほうの本当の作者は、まるで世間には知られていないのだ。
それにしても、これほど知れ渡っている(山愛好家との限定付きかと思うが)言葉なのに、私は間違えた。単に記憶違いをしていたのではない。ミスはミスなのだが、これには私なりの理由がある。

それはともかく、先ずは百瀬慎太郎についてごく簡単に触れてみよう。(実は百瀬慎太郎について書くだけでも400字詰めなら2,30枚でも足らないほどあるのだが、ここはブログなのだから軽くなぞりたい)。
百瀬慎太郎は、1892年(明治25年)に長野県・今の大町市に生まれた。実家は旅館である。その対山館という旅館に、彼が生まれた翌年にウエストンが泊まっている。日本に「登山」というものの種を蒔き、日本アルプスの父といわれたイギリス人である。(今でも上高地で毎年”ウエストン祭”が開かれている)。
慎太郎は家業の旅館を継ぎ、広い交友からそこを北アルプスに挑む者たちの拠点、地方の文化サロンに発展させた。そして国内初の登山案内者組合の創設や鉢ノ木峠の入り口に山小屋を開設するなど、黎明期の日本登山界に大きな貢献を果たしている。
自らも岳人として厳冬期の立山・鉢ノ木越えに成功し、また別の年、伊藤孝一の雪の立山・鉢ノ木峠を映画にするという当時では思いもよらない壮挙に、赤沼千尋たちとともに同行している。(この「幻のフィルム」と呼ばれた無声映画を、私は池袋で観ることができた。その感激は十数年たった今でも忘れられない)。
慎太郎の交流の一端を示すものとして、対山館を拠点として山に向かった人たちの名を思いつくまま上げてみよう。
芥川龍之介・若山牧水・竹久夢二・有島武郎・大町桂月・長谷川如是閑・川東碧梧桐・小島烏水・辻村伊助・槇有恒・中西悟堂…・。きりがない。数多くの登山家や学生たち、また文人・墨客が対山館で慎太郎と酒を酌み交わし、「大町・対山館時代」といわれる古きよき時代を作り上げていた。

また、慎太郎は若山牧水門下の歌人でもあった。瀟洒な文も遺している。
あの「山を想へば人恋し…」は、死の前年に鉢ノ木峠を回想した文中にあり、この言葉の後のほうに
「…山と人、その交錯の相(すがた)をぢっと見せつけられてきた自分だった…」とある。

さて、例の私の間違いについてである。
私はこの胸を打つ名文句を愛しながら、しかしそれが、観光地の様々なお土産グッズにけばけばしく載せられていることに、反発も感じていた。そして、なるべく自分の文にはこれを引用しないでおこうと思っていたのだ。そんな気持ちが私の心の下地にあったのと、もうひとつ、ブログを書いているうちに、慎太郎の次のような言葉が思い浮かんでいたのだ。
(宿屋の主人として生きてきたことは)「…私の思い出は山であり人である。山を想うということは、それに関連して人を想うことだ…」
「山岳夜話」という戦後まもなく連載された新聞のコラムの一節で、百瀬慎太郎を知っていくうちに私の心に焼き付いていたのだ。
「山を想えば人を想う…」とは、まったく無意識に出てしまったものなのだ。

写真でしか知らない私の生まれる前の人。しかしほかのいろいろな岳人たちと同じく、とても身近に感じられる人である。
敗戦の荒廃の中で慎太郎はこう歌う。
  うつし世のあらがひの姿見るに堪へず我心ひたに山によりゆく
そして国敗れて山河ありと、こうも書く。
「眺めても良い。想ふだけでもいゝ。必ずしも絶嶺に立たなくとも、山麓に、中腹に、渓谷に、森林に、其処には到る処に深い恵みが溢れてゐる。…」

対人館は昭和18年に廃業。戦争で山どころではなくなったからである。そして敗戦まもなくして、百瀬慎太郎は58歳で世を去った。
今年もまた6月の山開きに”慎太郎祭り”が行われたという。
by SnowAlps | 2005-10-20 22:36 | spare time
マツムシソウ
仕事帰りの夜道、私は商店街の通りを避け、それより2本も3本も裏になる道をわざわざ遠回りして帰ることが多い。
庭の広い住宅が多く、道には木の香り花の香りがかすかに漂い流れているし、秋には虫の音も聞けるからである。

10月に入っても日中の暑さは続いたが、今日は雨のせいもあって寒いくらいだ。
家への道をゆっくり歩きながら、私は「おやっ、何かおかしい」と感じた。駅から毎晩歩いて帰る道なのに、なんとなく違和感がある。
そして気づいた。いつも木の上から降り注いでくるアオマツムシの高い声が今日はないのである。葉の陰で少し強くなった雨を避けているのだろうか。
それならそれでいい。この音の無さもまた一興だと思った。

そうして歩きつつ、私はふと高原の秋に想いが飛んだ。アオマツムシの名からの連想であろうか、初秋の霧ケ峰・車山の碧い大群落"マツムシソウ"へ・・・。

高原一帯に咲き乱れていたニッコウキスゲの黄色い群落が次第に消えていくとともに、マツムシソウが咲き出す。淡い青紫のこの花は秋を呼ぶ花である。マツムシが鳴き始める頃から咲き出すのでこの名がついた、という説がある。それほどマツムシソウは草原の秋を代表する花だ。

霧ケ峰の、いくつも連なるゆるやかな起伏に秋の風が渡ると、群り咲く青紫のマツムシソウが一斉に揺れる。
   うれしくも分けこしものか遥々に松虫草の咲き続く丘  (長塚節)

何年も前の話だが書き出してみよう。私が大学生のとき、臨床心理学の教授が私に家庭教師の口を持ってきてくれた。同じ大学の理学部助教授の家である。
息子の小学生の家庭教師となったのであるが、その子は発達障害をもつ子であった。障害は身体の方ではない。カンナー症候群である。私は紹介してくれた教授のもとでプログラムを組み、週2回、1年2年と通った。
その子は時に激しく暴れたり、自傷行為もあったりで、会話もままならず、私はいつも重い気持ちでその家に通い続けた。私の都合で休むということがあればすべてが元の木阿弥になりそうで、たとえ風邪でかなり熱があっても休むわけにはいかなかった。自身の実践的な勉強のためにもなると、私は懸命だった。それに、教授が、私には過大な役目ではあるけれど願ってもない学習体験を与えてくれ、しかも経済的に困窮している事情から世間の家庭教師以上のアルバイト料をいただける、という温かい配慮が心底ありがたく、その気持ちを裏切らないようにと必死だったのだ。

その子にはひとつ特徴があった。ノートや画用紙はもとより広告紙の裏など紙の白い部分があれば、その紙いっぱいに青い色鉛筆で無数の小さい花を画くのである。
青一色のそれは、ひとつひとつに茎がありその茎から小さい葉がいくつか出、上に少し大きめの花が咲いている。そして画面全てが青い花の大群落で埋め尽くされる。それを、何枚も何枚も画いているのである。
「これは何の花?」と聞くと「あなたの花」という。「あなた」というのは彼には「自分」を意味する。つまり「ぼくの花だよ」と言ってるのだ。「どこに咲いてるの」「花、花、こっちも・・・風が吹くと寒いよ」

およそ2年ほど彼の家に通っていたが、私は両側中耳炎急性増悪症から聴力を全く失って休学するハメとなり、むろん彼の家にも通えなくなった。やむなく同じ学部の大学院生と交代した。

およそ半年後、私は一応聴力だけは回復し復学した。しかしそれからは激動の学生時代だった。いわゆる大学紛争の激化、闘争の嵐だった。
例の教授も、また家庭教師先の助教授も徹底的に糾弾されていた。私と交代した先輩の院生も韓国を拠点とする思想団体に入ってしまい、私と全く相容れない状態となった。

誰もが信じられなく、自分もこれからどうしていいかわからず、私はひたすら読書と旅と山登りに自分を追い込んでいった。友人の何人かは自ら命を絶ったり行方不明となった。それもまた、私には大きな心の痛手であった。山も、尾根歩きから、より激しい岩登りへと傾斜していった。落ちて死んでもいいと心のどこかで思っていたのかもしれない。屹立し、人を拒絶する岩壁にしがみついて、悪戦苦闘しているときだけが生きてる実感を覚えていた。
もうまったくあの小学生だった子ともの家を訪れることもなく、教授にも先輩にも会うことなく過ぎていった。

それから何年経ったろう。ある秋の初め、私はふらりと新宿から中央線の電車に乗った。切符は初乗り料金で、どこへ行くという当てもなかった。その気になったところで降り、乗り越し料金を払うつもりであった。
東京の家並みも切れ、車窓に緑濃い景色が拡がり出すと私の心は少し落ち着きだした。
どこか虚ろで、それでいて若さゆえの焦燥に、どうにも身を処すすべなく、無為の毎日を繰り返していたのだ。そんなときの無目的の旅である。
列車が進むにつれ、私はしきりに山を、それも穏やかな、陽のあたる明るい高原のようなところに行きたいと思い始めた。そして、そうだ、車山に行こう、と思いついた。霧ケ峰の車山には以前、3月と、それから冬山訓練のため単独で12月に雪洞を掘って2泊したりはあったが、雪のないときはこれが初めてなのだった。本の写真で見る夏のそこはなだらかな丘の続く、いかにも明るい、花の高原らしかったから。

茅野で列車を捨てバスに乗ったが、終点の強清水まで行かず、途中の集落が切れる辺りで降りて歩いた。
初秋の風に水引草が揺れている。タムラソウやアキノキリンソウ、ヤマホトトギス、ナギナタコウジュなどが次々と現れ、続いていく。
そうして登っていくうちに霧ケ峰へ、そして車山の肩へと着いた。

そこは一面に薄紫の絨毯を敷いたようなマツムシソウの大群落であった。
ヤナギランもハンゴンソウ、リンドウ、シオガマをも、全てを圧倒して咲き乱れていた。

私はかなり長い間立ち尽くし、見とれていた。
そしてどこかでこれを見た気がして、ああ、あの子の描いた紙の中の風景だ、と思い当たった。
画面に隙間なく描かれた小さな青い花々。それはまるでこの車山の光景を写したかのようではなかったか・・・。

おそらくそれは違うであろう。その時は青色が気に入って、チューリップのような何かの姿をいくつもいくつも紙の上がいっぱいになるまで描いてみたのだろう。
もしそれがこの光景を実際に見てのものだとしても、マツムシソウとは限らない。やはり大群落をなす黄色のニッコーキスゲかもしれない。その本当のところはわからない。
だが、事実は異なるとしても、彼の心象風景の奥底には、このような青や黄色の花が無数に咲き乱れていたに違いない。
そう思いながら見ていると、彼の気持ちが少しわかるような気がした。そして、自分もまた彼と同じように、いつしか人と関わることが難しくなってしまっていたのを痛切に感じた。
人間に、人間の社会に対して、私はどんどん後退しているのだと。
それでいて、自分から作り出した弧絶した状況から抜け出したいと思ってもいるのではないか。この当てもない旅の始めは、そんな思いが無意識のうちに出た行動かもしれない。「私は今、巡礼の旅に出た」と、思うことにした・・・

・・・それから1年たった夏、私は結婚した。


マツムシソウの名の由来:  花が終ったあとの坊主頭が、松虫鉦(がね)に似ているところからという。松虫鉦は、僧侶が巡礼の旅に出るときに使う、マツムシの鳴くような音がする鉦。

マツムシソウの花言葉:  「感じやすい」



by SnowAlps | 2005-10-05 23:41 | spare time
随所任意の・・・
何故だかわからぬ。わからぬが予はいきなり駆け出さねばならない。
我が別荘と称するこの家の中を、端から端まで勢いよく、そう、脱兎のごとく駆け抜け、狭苦しいためにあっという間に突き当たるがまた走り戻って、何かの上に飛び乗ったり降りたりする。それを何度かしてようやく気持ちが収まる。

その衝動は突然くる。命が躍動するのだ。

時々こうして、ふつふつと湧き上がる生命根源のエネルギーを発散しないではいられない。
発散したすぐそのそばから、またエネルギーが少しずつたまりだす。
やがてそれが頂点に達すると、ちょうど沸騰した水が鍋からいきなり吹き毀れるように、予はまた突然駆け出してしまうのである。
そんなことが日に何度も起こる。

若いのだ。若さに満ち溢れているのだ。人間なら青年前期。しかも我々には人間のような「若さゆえの悩み」なんてものはない。ましてやディレッタントなどというジレッタイ種族ではないから、本能の命ずるまま、心の赴くままに、突き動かされる生命の躍動を体いっぱいに表している。

それに比べ、人間どもは何と情けないことだろうか。いや、ここの住人に限ってもよい。まるで精気がないのだ。
かってはこの家も、4人もの子供たちの走り回る喧騒あふれるものだったらしい。大人の男も女も(ヒト科のオスとメスのことであるが、どうもオス・メスを多用すると耳の障りがよくないので変えよう)元気いっぱい、いろいろなことに手を出していたという。毎日がお祭り騒ぎといってもよいくらいだったそう。(それで彼らの娘も今はローやその他のオンガクカたちとともに毎日どんどこピ-ヒャラお祭りしてるのだ。)
だが、その娘がよそにいってていない日が続くと、この家は、敗色濃厚な選挙事務所のようである。男は「みなさんすみません。私の力およばず…」といった支持者への陳謝の文句を考えつつ開票結果を見ている雰囲気だ。もっとも、とことんノーテンキだから、どこかにまだ奇跡を信じてる風でもあるが。

そんななかで、予は大いに暴れまわっている。
上にあるものはみな下に落とし、縦のものは横にし、障子とやらの紙はずたずたに引き裂き、侵入してきたキリギリスらしき虫どもはとっつかまえて転がしたりしてる。ちょっと試食してみたが、あれはあまりうまいものではない。

とにかく予は精気満々、いつでも何でも来い!だ。
いつであろうと、どこであろうと、予は予の思うがままで、闊達自在だ。このような心境を、ちと古めかしい言葉で言えば「随所任意の蔗境(しゃきょう。しょきょうともいう)に入る」という。
それも、枯れてなるのではない。溌剌とした気力溢れる中でこんな境地になれるのだ。
人間どもにはできるまい。ザマーミロ。
悔しかったらネコになれ!

by SnowAlps | 2005-09-21 23:26 | spare time
予の Rambling Essay 第2弾
杉並別荘に来て1日か、2日か。そんなこと予は知らない。
腹がくちくなったら寝るし遊び疲れては夢路をたどる。それを頻繁に繰り返しているから、いつ外が暗くなり明るくなろうと気にもならない。予には日にちだの時間だのといったこせこせした区切りなんぞは必要ないのだ。

予の本拠地は東京の郊外の市にある。マンションとやらの味のない密閉コンクリート小屋に、1人で棲息しているヒト科のオスを予の専属世話人にしてふだんは暮らしている。この使用人はローと呼ばれてるらしい。
このローのもとへ、ターだのコーだのリーだの、はたまたトーだのといった、得体の知れぬオスメスがよく通ってくる。
奴らは肉体労働者で、年中疲れたような顔をしている。そして何やらごちょごちょ話しているのだが、大半はろくでもないことであろう。
肉体労働者といえば、予はヒトども(人間どもといってもよいことにする)の中では、もっとも敬意をもって接することにしているのだが、奴らの労働はどうも違う。太鼓とかジャンガラといったものをガンガン引っ叩いて、己の邪心を発散するシゴトらしい。さらにトーという若いメスなどは(ちなみにこ奴は杉並別荘の住人である)穴のあいた竹に息を吹き込んでむりやり音を出すシゴトもしている。この前などはあんまり息を吹きすぎて、目を回してひっくり返っていた。

元来オンガクなどというものは人間どもしかやらない。我々他の動物には無用のものである。何故なら、そんな姑息な手段を使わずとも、我々は腹の底からそれぞれの唄を、思いを、謳いあげることができるからだ。悔しかったら人間どもよ、全身全霊で、命をかけて、喜び悲しみ怒ってみよ。それが辛うじてできるのは、赤ん坊か幼い子どもだけであろう。

人間は年を経るに従いいびつな動物となっていく。それを成長とか言って肯定している。だがそのために切り捨て、取り残していった数々のものの貴重さに思いをはせない人間が多々いる。幼子の気持ちを多く持っていると「あいつは未熟だ」という。熟することは腐敗しつつあることの同義だ。

まぁ、予の世話人達のことを言ってても仕方なかろう。奴らはコンサートだかなんだかで遠くへ行ってしばらく帰らない。舞台とやらに立つと俄然精気をみなぎらせる輩だ。きっとそういう狂態を見せているだろう。恥ずかしくもなく全国あちこちに、それどころか海の外までいってはどんがらどんがら打ち鳴らしている。彼らなりに必死であることだけは認めてあげよう。ご苦労なことだ。

by SnowAlps | 2005-09-18 17:55 | spare time
別荘に着いて
またこの家にきてしまった。いや、連れてこられたというほうが正確だろう。
予(よ)にふだん仕えているヒト科のオスが、しばらくどこかへいくという。そのため奴は予の食事や排泄の後始末などの当然の義務を果たせないというので、この家の者どもに代わってもらおうというわけだ。

まぁ、どこだっていいし、誰だっていい。しっかり予に仕えろよとジロリとこの家のオスメスどもを一睨みしてやった。

ところで、予は自分のことを指す言葉にちょっと困った。
この世に生を享けて400日。ヒト科どもの年齢に換算すれば17,8歳という。
血気盛んだからオレでもいいのだが、なにしろ高貴な出、オレは乱暴すぎる。
ボクでは、あの僕という字はしもべという意味だから、自分が使うには謙遜過ぎる。
かといってチンと言うなら、始皇帝以来、ヒトであってヒト以上と自称したり、そのように祭り挙げられたりする者が「朕は・・」などと『ただのヒト』である民草にのたまうので、好きではない。
ワタシやジブンでは対象化しすぎてどうも親しみがわかない。
ワガハイといえば誰かの真似になる・・・

やむをえず「よはまんぞくじゃ」というヒト科の古いやからの言葉をもって自分を表さざるを得ない。
予という字には、他に何かを与えるとかたのしむことという意味もある。もちろん予定、予習、予言などと使われるように、あらかじめ・かねてという意味をも含む。予の字を重ねて予予とすれば「かねがね」と読むのはそこからきている。つまり「予予あなたのお噂は聞いておりました・・・」

1人称に色々あるのは困ったものだ。英語の I や仏語の je または来年のW杯に敬意を表して独語の ich あたりにすべきかと思ったが、予のご先祖様は古代エジプトの由緒ある血筋であるし、今にいる予は日本で生まれた。ヒトどもには欧米語より日本語が適切であろうからやむをえないことなのだ。

予のご先祖様はクレオパトラとかいうメスにも大いにその心を癒してやったという。
この家(予は杉並の別荘と読んでいる。愛知にも予は別荘を持っているのだ)の者どもが、この夏、港区の松岡美術館というところで、ご先祖様たちのはるか昔の像の現物を拝んできたらしい。そして確かに予はその像の子孫であると納得したようだ。

古代アビシニア地方の原産ゆえアビシニアンと我が仲間を勝手に名付け、不当にもペットショップという非動物的な場所で「いいネコだよ~」などと言いながらゼニカネなるもので取引してる。
ヒト科の動物は、我が動物界の最低の、酷薄非道のものである。生まれて間もない予を強引に親から引き離し、この前なぞ、予の子孫繁栄のための大事な大事な部分を無理やり刳り抜いた。
その極悪ぶりは言語に絶する。したがって予はもうめったに声を出すことをやめた。それをヒトどもは、真の理由もわからずに、サイレントキャットなどと言って、マンションには最適だよ、と、うそぶいている。愚かで、許しがたい暴挙だ。

まぁ、ここでただ怒っていても仕方がない。だからちょっと考えた。これから数日の間、ヒトという動物のバカさかげん、あほらしさを、この別荘の住人を餌食にして広く伝えてやろう。なにしろここの住人ときたら、顔といい行動といい、もうダメ人間の典型だから。ただ、好奇心だけは強いようだ。ことに1番年をくっていて1番頼りないオスは、愚にもつかない考えにふけったり、散歩と称してはぐるぐるそこらを徘徊し、必ず何かを見つけて一人で喜んでいたりする愚か者だ。ほんのちょっと仕事らしきことをしては酒を飲んで気炎を上げているしまりのないオスなのだ。

予もそんな最愚者に数日間だけ付き合わねばならない。こっちも少々緊張感の欠ける日を送ることになろうか。それもいいかもしれない。別荘に入らば別荘にしたがえ!だ。
by SnowAlps | 2005-09-17 23:55 | spare time
大学の「単位」は国際標準規格なのに・・・
前回書いたように「宿題なんてしなくていい」といった父だが、私が大学へ入ると「大学生なら1日中学問せい」と極端だ。
ところで宿題というのも変だが大学生の義務であるべき家庭学習(自学習)について書いてみよう。
義務?そう、大学での講義以外に自学習するのは国際的な約束事の義務なのである。
案外そのことは知られていないので(日本では学生はおろか、驚くことに教師も知らない人が多いという)一応記しておこう。

大学を卒業するためにはある一定以上の「単位」を取得しなければならない。
その単位であるが、大学での講義1時間につき2時間の家庭学習を行うものとし、15時間の講義と30時間の家庭学習を合計して1単位としている。つまり大学では1コマ2時間を15週行い、家庭学習は学生がきちんと毎回4時間ずつ15週やったとして2単位を得ることになる。そしてこの単位は国際的な規格なのである。

果たして今の日本の学生で、1つの授業(2時間)に対し4時間の家庭学習をしているなんて信じられるだろうか。実はこのごろ大学のほうでも1コマを90分に縮小して2時間やったことにしているのが多いのだ。それなら毎回4時間半の予習復習がいるのである。とてもそんな学生はいそうもない。

神戸女学院大の内田樹氏は『平均4倍以上のインフレ査定がなされているのが日本の大学の単位の実情』と指摘し、『多少の地域格差は許容範囲でも、ここまで実勢との差が開くと、国際社会から「日本の大学の出す単位認定は怪しい」という疑いが出かねない』という。続けて氏は『「日本の大学卒業?ではうちの国の大学の二年次に編入してください」となっても不思議ではない』(>内田樹の研究室8月5日記)。

昨夜イギリスから夏期休暇で帰国した友人と飲んでいて、このことに話が及んだ。
彼は日本の大学を卒業し、世界放浪の旅へ出たのだが、イギリスに住み着き、現地の大学へ1から入って(学部を変えている)卒業し、更に大学院で学んだ。今は向こうの学校で教えているのだが、彼にしても日本の大学の甘さは我慢ならないという。日本より進学率は低いが大学生は実によく勉強する、というより、しないと容赦なく退学ということになるという。したがって、大卒の肩書きはそれ相応の価値を有しているのだそう。ひるがえって日本は・・・と彼は慨嘆する。

日本の「世界最低の高等教育」や「止まることの知らない学力低下」については色々考えがあるのだが、別に記そう。昨日の深酒と不眠がまだこたえている・・・・



by SnowAlps | 2005-08-22 23:24 | spare time